ほんじつ2月26日は「脱出の日」。
いやいや。一体どこの誰がいつ、どこから脱出したんだ?
というツッコミは避けられない記念日だ。
でもその人物はフランスの英雄で、日本の中学生がもれなく授業でならうナポレオン・ボナパルトと聞けば納得できるかも。
ということで今回はこの人の、忙しすぎる数か月について書いていこう。
ナポレオンは日本でいえば豊臣秀吉に似ている。
ナポレオン(1769年 – 1821年)はフランスの軍人で革命家、さらに即位して皇帝ナポレオン1世となった世界的な有名人。
1804年にローマ教皇ピウス7世を招いて行った戴冠式で、彼はそれまでのヨーロッパの常識をぶち破る。
当時のヨーロッパの皇帝は即位する際、教皇から王冠を頭に載せてもらうのがお約束だったのに、ナポレオンは王冠を手に取ると教皇の目の前でそれをかぶってしまう。
このとき教皇は驚きのあまり、「え?おまえ、何してくれてんの?」とつぶやいたという話は知らんけど、教皇を”無視”したこの振る舞いによってナポレオンは、ヨーロッパに自由の革命精神を根付かせること、そしてキリスト教(教会)を政治の支配下に置くことをアピールしたと考えられている。
皇帝となったナポレオン
でも、ロシア遠征で失敗したのが運の尽き。
「最大の危険は勝利の瞬間にある」と自分で言ったのに、どこか調子に乗ってしまったのか。
これで弱体化したと考えたロシア、ドイツ、スペイン、イギリス、スウェーデンなどが1812年に『第六次対仏大同盟』を結成して、ナポレオンのフランスを袋叩きにする。
まぁそこまで一方的ではなく、ナポレオンも頑張ったが力及ばず、皇帝の地位をはく奪されイタリアのエルバ島に流された。
皇帝の座から引きずり降ろされたとき、絶望したナポレオンは宮殿で自殺を図ったという。
でも死ななくてよかった。
「不可能という文字は我が辞書にはない」と言ったように、ナポレオンは囚人の境遇から奇跡の復活を果たすのだ。
1815年2月26日、エルバ島を脱出した元皇帝は一路パリへ向かう。
それにちなんで2月26日が「脱出の日」になった。
でも、どうやらフランスにこんな日はなくて、どっかの日本人がつくった日本の記念日のようだ。
「あの怪物が流刑地を出た!」
それを知ったフランス国王ルイ18世は討伐軍を差し向けるものの、ナポレオンが「兵士諸君!諸君らの皇帝はここにいる!」と叫ぶと軍は寝返ってナポレオンの手下になったという。
そしてパリに近づくと今度はルイ18世は逃亡し、入城したナポレオンは再び皇帝に返り咲く。
がその栄光も、ワーテルローの戦いでイギリス・プロイセンの連合軍に負けて終了。
ナポレオンが皇帝だった期間はおよそ100日だったことから「百日天下」といわれる。
権力を手にしたと思ったら、すぐに崩壊する短期政権をこう表現することがある。
日本でいう「三日天下」ですね。
その後、アフリカ大陸から約3000km離れた孤島に流されたナポレオンはそこでこの世を去った。
さすがにここからの脱出&復活は無理。
「不可能」の文字はあったじゃん。
ではこの期間のナポレオンを振り返ってみよう。
1815年2月26日にエルバ島を脱出し、3月に皇帝となって、10月にはセント・ヘレナへ飛ばされた。
さすが英雄、この数か月で皇帝→囚人→脱出→皇帝→囚人と、一般人の10輪廻分のアップダウンを経験している。
ジェットコースターだとか超スピードだとか、そんなチャチなもんじゃあ、断じてねえ。
さてこのナポレオンを日本の人物でたとえるなら、「三日天下」の明智光秀よりも、国内外の見方でいうと天下人の豊臣秀吉に似ている。
ナポレオンも秀吉も国内の頂点に立ったあと、周辺国に軍を進めた。
その結果、現在では秀吉を「侵略者」と思う韓国人がいるように、ナポレオンをそうみるヨーロッパ人もいる。
21年間、産経新聞のパリ支局長をしていた山口昌子氏がこう書く。
ジェントルマンのイギリス人は、そんなことはオクビにも出さずに、「欧州の侵略者」という客観的な呼称で、ナポレオン敵視を正当化している。
「フランス人の不思議な頭の中 (角川学芸出版) 山口昌子」
現在の価値観からするとツッコミどころは多数あれども、日本人やフランス人にとってはどちらも艱難辛苦を乗り越えた英雄に違いない。
ただフランス革命で廃止した奴隷制度をナポレオンが復活したことに対し、豊臣秀吉はヨーロッパ人による日本人奴隷貿易に激怒し、キリスト教禁止令を出した点では正反対だ。
おまけ
ナポレオンがエルバ島を出てからパリに入城するまでの、当時のフランス紙の見出しの変わりっぷりが面白い。
あまりに出来過ぎているのでどこまでホントか分からないけど、権力に迎合するメディアをやゆしてネットでこんなコピペがよく使われる。
「怪物、流刑地を脱出」(2月26日)
「コルシカの狼、カンヌに上陸」(3月1日)
「悪霊、ガップに出現。討伐軍が派遣さる」(3月3日)
「食人鬼、グラッスへ」(3月5日)
「王位簒奪者、グルノーブルを占領」(3月7日)
「悪辣皇帝、リヨンに。恐怖のため市民の抵抗は無し」(3月10日)
「僭主、パリより50マイルまで迫る(3月15日)」
「ボナパルト、北方へ進撃。速度増すもパリ入城は不可能か」(3月17日)
「ナポレオン氏、明朝パリへ」(3月19日)
「皇帝陛下、フォンテンブローへご帰還。皇帝万歳」(3月20日)
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> このナポレオンを日本の人物でたとえるなら、「三日天下」の明智光秀よりも、国内外の見方でいうと天下人の豊臣秀吉に似ている。
いやいや、ナポレオンの生涯はそんな生易しい人生じゃないですよ。明智光秀も豊臣秀吉も、日本国の主要部であった「近畿・東海」をほぼ統一した織田信長の後押しあってこその実績ですから。
つまりナポレオンの人生を日本の人物に例えるならば、織田信長(+明智光秀)+豊臣秀吉 をすべて合算して、一兵卒からのし上がって、一人でこなしたような、そんな偉大な人物だったと思うのです。
日本人じゃとても無理。むしろ強いて上げれば、平清盛とか? だけど清盛は、自分自身では平家の没落を目にしないまま病死してしまいましたからねぇ・・・。