「美」という文字を上下に分解すると「羊+大」になる。
古代中国では神へのささげものとして羊が使われていて、なんせ神聖で高貴な、そして尊いお方へのプレゼントだから、その羊は大きくて立派なモノが選ばれた。
それが「美」という漢字の成り立ちという説がある。
さてきょう3月5日は「ミスコンの日」。
1908(明治41)年のこの日、日本初となるミス・コンテストが開かれたことを記念する日だ。
なのでこれから、日本でのミスコンの歴史をみていこうか。
複数の女性の中から「美」を選ぶイベントなら、1890年に「美婦人品評會」が行われている。
送られてきた写真を見てナンバーワンをきめ、賞金を出すというこの催し、応募総数わずか4名という有り様で、発起人は「天下に美人の少なき」と嘆いたという。
翌年1891年には芸者約100人の写真の中から、最高の美人をきめる『東京百美人』が凌雲閣(りょううんかく)で開催された。
凌雲閣は明治時代に建てられた高層建築物で、人びとがそこに昇って東京の景色を眺めて楽しんだというから、東京タワーやスカイツリーの「ご先祖さま」のようなものだ。
凌雲閣
凌雲閣の壁に美女100人の写真を貼って、来場者の投票によって一位をきめた。
現在の「AKBスタイル」はここからうまれたという。しらんけど。
よーするにこれは、凌雲閣の運営会社が客を集めるために行ったイベントで、大きな利益を受けるのは会社、女性はその「道具」と考えれば、神にささげる羊のようにもみえる。というのは悪意に満ちた見方で、このコンテストで上位入賞を果たせば注目を集めることができるから、芸者本人にもそれなりのメリットはあった。
「第二回百美人」で2位になった安達 ツギ(1874年 – 1915年)は、その後広告モデルにも起用された。
芝の待合(料亭とも)「浜の家」では伊藤博文・渋沢栄一・後藤象二郎などの”大物”の座敷をキャンセルしてまで頭山と過ごした。
日本初の本格的で全国的なミス・コンテストは、1908(明治41)年に時事新報社がこんな宣伝をして開催したもの。
「新興の日本帝国は、一事一物決して 人後に落つべからざるのみならず、場合によりては自ら進んで大いに薦むるの必要あるに当り、あたかも良し、此挑戦状は、我に与ふるに絶好の機会を出てせるものに非ずや。」
この「日本美人写真募集の大計画」に芸妓・女優・職業モデルなどはNG。
参加者を全国に募った結果、約7千名の応募があった。
これだけの規模で彫刻家の高村光雲や歌舞伎俳優の中村芝翫など、その分野を代表する著名人が審査員になったというから、「日本初のミス・コンテスト」ならこれだろう。
そしてみごと日本で最も美しい女性に選ばれたのが、下の末弘 ヒロ子(すえひろ ひろこ:1893年 – 1963年)。
日本最高の美女を世の男どもが放っておくはずがない。
ヒロ子のもとには全国から求婚の申し出が殺到し、「かぐや様状態」となったヒロ子はその中で一番イイ男を選んで結婚して末永く幸せに暮らしたという。
というのはウソで、そんなマンガのような展開にはならず。
ミスコンに参加したことが、当時通っていた学習院(女学部)にバレてヒロ子は退学させられた。
しかもミスコンに応募したのは兄で、本人は知らなかったというマンガのようなこれは実話。
でも、それをかわいそうに思った校長の乃木希典がキューピットになり、陸軍少佐の野津鎮之助を紹介して2人はめでたく結ばれた。
その後、3人の娘に恵まれヒロ子は幸せに暮らした。と思う。
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