豆のほかにも、日本へいろいろ伝えた中国の仏教僧・隠元さん

 

4月3日は「いんげん豆の日」。
ビールのおつまみとしていまでは海外でも有名な…と書こうと思ったら、それは枝豆でインゲン豆とは別ものだったでござる。

中央アメリカを原産とするこの豆はアステカ帝国(15世紀ごろメキシコで栄えた国)では税のひとつになっていた。
大航海時代にそれをコロンブスがヨーロッパに持ち帰り、16世紀ごろから栽培されるようになる。
当時のヨーロッパ人にインゲン豆は、食中毒(ソラマメ中毒)にならない体にいい豆として人気だったという。

その後ヨーロッパから中国へ伝わって、日本には17世紀に上陸したというこの豆、インゲン豆の由来としてよく言われるのが隠元という中国人さん。

 

 

眼光鋭いこの老人は中国・少林寺で武道を極めた達人で、その厳しい修行を耐え抜くエネルギー源として日本人に豆を紹介したことから、それが隠元豆と言われるようになった。
という話は聞いたことないがこの人物、隠元隆琦(いんげん りゅうき)は中国の仏教僧で、日本にいろいろな文化や文物をもたらしことは歴史の事実だ。
彼が持ってきたものの中に豆があったことから、日本でそれは隠元豆と呼ばれるようになったという。
ただこれはインゲン豆ではなくて、フジマメだったという説もあり。

 

 

隠元が生きていたころの中国は明王朝の末期で、動乱の時代をむかえていた。
1644年に李自成の軍が北京へやってくると、家来だった文武百官は皇帝を見捨てて逃げ出し、崇禎帝(すうていてい)は妻と子どもを殺害して自分は宮殿(紫禁城)のすぐ裏の木で首をつって死んだ。

 

崇禎帝の最期の場所

 

明王朝が滅亡した後、鄭成功が用意した船に乗って1654年に隠元が長崎へやってくる。
彼の人間性や知識は素晴らしかったようで、日本での隠元人気は爆発。
あまりの影響力の大きさから、幕府から寺の外に出ることを禁止されてしまうほど。
隠元が帰国を決意すると日本人はその”阻止”を始め、この逸材を何とか日本にとどめておくために将軍・徳川家綱と会見させたりした。
結果、隠元は自分の寺をもつことになる。

万治3年(1660年)、山城国宇治郡大和田に寺地を賜り、翌年、新寺を開創し、旧を忘れないという意味を込め、故郷の中国福清と同名の黄檗山萬福寺と名付けた。

隠元隆琦

 

後水尾法皇や皇族、幕府の要人や大名などが彼に帰依したという。
隠元が帰化して”日本人”になったのはこのころかもしれない。
隠元が帰国しなかったのは、満州族の支配する中国(清)を嫌う気持ちもあったのでは。

1673年4月3日に息を引き取ったことから、この日は現在「いんげん豆の日」という記念日になっている。

 

駒沢女子大学のホームページにある「日本においしい食材を伝えた中国僧」によると、隠元が日本に伝えたものにはインゲン豆のほかに、スイカ、孟宗竹(たけのこ)、レンコン、ナス、煎茶という茶の飲み方、ごま豆腐、現在の精進料理のモトとなった普茶料理、ちゃぶ台、それと原稿用紙がある。

 

 

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1 個のコメント

  • >隠元が日本に伝えたものにはインゲン豆のほかに、スイカ、孟宗竹(たけのこ)、レンコン、ナス、煎茶という茶の飲み方、ごま豆腐、現在の精進料理のモトとなった普茶料理、ちゃぶ台、それと原稿用紙がある。

    ふーん、それはすごいですね。
    とは言え、お茶の飲み方くらいだったらともかく、他の様々な文物はどうやって伝えたのでしょうね?そんなにたくさん、荷物を持ってこれたのでしょうか? 不思議だなぁ・・・。
    それと、坊主なんだから、肝心な「経典」についてはどうだったのですかね? もうその頃には、仏教の重要な経典は全て日本へ伝わってしまっていたということですかね。それはきっと、隠元和尚も日本へ来て驚いたことでしょうね。

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。