もしご存命なら、1901年生まれの昭和天皇はきのうで120歳になっていた。
ということで昭和天皇の誕生日であるきのう4月29日(昭和の日)、そのお人柄を紹介する記事を時事通信が載せた。
「雑草という草はない」 生物学者・昭和天皇の姿―国立科博が生誕120年展
植物や昆虫などに強い興味と深い知識を持っていた昭和天皇にはこんなエピソードがある。
1965年に那須で静養しているとき、侍従らが皇居の雑草を刈ったと話すのを聞き、昭和天皇は「雑草ということはない」と言ってこう注意した。
「どんな植物でも皆名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方で、これを雑草と決め付けてしまうのはいけない。」
この記事に民草(国民)の反応は?
・家の周りのカタバミがなかなか滅びなくて困ってる
・上原「何魂なんやろ?俺」
・草むしりしてると草にも個性があって可愛く思えてくるやつもいる
・雑草ならこのスレに沢山沸いてるぞ
個人的には、「いや~まえに世界地図で、“外国”って国を探してた生徒がいたっけ」と話す中学校の先生をなんか思い出した。
それはいいとして、この「雑草という草はない」という発想は天皇というより、生物学者としての見方か。
研究室にいる昭和天皇
昭和天皇というとやっぱり、先の大戦を抜きにすることはできない。
太平洋戦争が終わったあと、天皇は1946年(昭和21年)から約9年かけて日本全国に足を運び(巡幸)、ときには整備されていない約2キロの道を歩いて村まで行ったり、昭和22年には広島県で「家が建ったね」と安堵の言葉を口にした。
各地で国民から熱烈な歓迎を受けたというのは、海外の“敗戦国”の皇帝にはなかったことだろう。
この巡幸について昭和天皇の側近か、事情をよく知る人がこう話す。
陛下の道義的責任で北海道から鹿児島まで、あるいは沖縄までおいでになりたい、ですから全国をおまわりになった。
それは何か、国民一人一人に手を取って「戦争で苦しかっただろう。よくやってくれた。今後もしっかりやってくれ」ということをおっしゃる。
だけど本当の気持ちは国民に対して「本当にすまなかったね」ということをおっしゃりたいと思うのです。「生テレビ・熱論 天皇 (テレビ朝日出版部)」
いまでは想像できないが、集まった群衆に取り囲まれた昭和天皇はこんな目にあったらしい。
あとでうかがってみたら、陛下のチョッキのボタンが取れたり、靴が泥んこになって踏まれて本当にもみくちゃですね。
ちなみにこの場所は大阪。
昭和天皇と行動を共にしたその人物はこうも言う。
だけど、陛下はそれを一番お喜びになったのではないかと思います。
靴が泥んこになるまで国民に靴を踏まれたというのに、それを最も喜んだというのだから、「雑草という草はない」というのはやっぱり日本の天皇としての言葉だろう。
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飼っていたナマコを生で食べてみたり、ひ弱な学者肌と陰で馬鹿にしていた海軍にこの海域の海水濃度は薄いと言ってそれを証明させて黙らせたお方なので。
そんなことがあったんですか!
> 昭和天皇は「雑草ということはない」と言ってこう注意した。
> どんな植物でも皆名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方で、これを雑草と決め付けてしまうのはいけない。」
その通りだと思います。
ただし、そのお言葉を直に聞いた人間であれば、それを聞いてなぜ「雑草」という名称がこの世に存在しているのか? 自分自身でも考えてみるべきでしょうね。農業あるいは園芸の世界には、「雑草」という概念は欠かせないのです。農業や園芸は、植物学だけで成立する世界じゃないんだから。そこまで思い当たらないようでは宮内庁の役人も情けない。ったく、前例こそは法であるとする、役人らしい無能さだ。
先生・先達の言われることにも、一歩間を置いて自分の頭で「その言葉が何を意味するのか」考えてみるべき。そういう意志と価値観が日本人には少なすぎます。もちろん「形から入って学ぶ」ことも重要ですよ。しかしそれだけではねぇ・・・。一種の「バカの壁」だな。キル・ビルのザ・ブライド(演:ユマ・サーマク)を見習うべきだ。
「我こそは後代の先例とならん」と言った後醍醐天皇は卓見だったと思います。でも、時代が早すぎたので周囲はついて行けなかったようですが。