日本人の価値観からすると銀河系のかなたのあるような、まさにド反対の価値観から成立している社会とはきっとこんな社会だ。
AFP通信の記事(6/29)
婚前交渉で男女に公開むち打ち刑 インドネシア・アチェ州
事件はインドネシアにあるアチェ州で起こった。
結婚していない男女が性的行為をして、それがイスラム法(シャリア)に違反したということで、それぞれ公開むち打ち刑をくらった。
スマホで撮影する大勢の”観客”の前で、2人は100回ずつむちで打たれた。
世界で最も多くのムスリム(イスラム教徒)がいるインドネシアでも、イスラム法が施行されているのはこのアチェ州だけだから、ほかの地域だったら2人はこんな目にはあわなかったはず。
このニュースに日本のネット民の反応は?
・観客入れてんのかよ
・こういう国で婚前交渉で子供ができちゃったらどうするんだ。
・むち打ちって思ってる以上にエグいかんな
・そうなのか。己のムチに、ただただ恥じ入るばかり
・刃牙では10回も耐えられない的なこと描いてたけど?
・おまえらは婚前も婚後も無いから安心だな
・授かり婚とか問答無用のむち打ち
現実感がなくて、日本とは完全に別世界での出来事と見ている人がほとんどだ。
アチェと同じように宗教法が社会で適用されているバングラデシュでも、2011年にいとこと婚外交渉を行った15歳の少女がイスラム法の「姦通罪」にあたるとして、聖職者らにロープで打たれる刑を受けた。その後、少女は内出血で死亡。
イスラム教が国教となっていて、宗教法がそのまま国内法として適用されている国は中東に多くあって、日本の近くにもある。
朝日新聞の記事(2019年4月6日 )
不倫で石打ちの死刑、イスラム法とは?人権侵害と批判も
東南アジアの国・ブルネイがイスラム法(シャリア)に基づいて、窃盗罪なら手足切断、同性愛だと死刑に処すると発表して、この年の4月3日から施行されて世界を驚かせた。
不倫した者には死ぬまで石を投げ続ける死刑を行うというから、欧米の国際人権団体が「人権侵害だ」と猛批判する。
日本にはないこの宗教法、なんでこんなものが必要なのか?
イスラム教を国教とする国や社会では信者が清く正しく生きるために、神(アラー)の言葉が記された聖典「クルアーン(英語読み:コーラン)」や預言者ムハンマドの言行(スンナ)などから、イスラム教徒として守るべき教えを宗教法として示し、それを市民(信者)に守ることを義務付けている。
イスラム教徒はその法の規定に従って断食や礼拝をしないといけないし、手足を切断する刑罰の根拠もクルアーンにある。
宗教の教え(法)に従って生きる人は世界中にいて、ヒンドゥー教徒が牛肉を食べられないことは学校でならったはず。
ほかにもユダヤ教徒は宗教によって、こんなものを口にすることが禁止されているのだ。
こういう価値観や考え方は日本人にはなじまない。
クルアーンからシャリア(イスラム法)がつくられて、それが社会の法律となって人々を拘束する。
これを日本で例えるなら日本国憲法がクルアーンで、憲法からつくられる法律がイスラム法になる。
でも日本人の感覚だと、「最高法規=聖書」というのが理解に苦しむと思われ。
というのは日本の歴史では、宗教法によって統治されていた時代がまったくないから。
ヨーロッパはこの点で違っていて、いまのアチェやブルネイのように、かつてはキリスト教の宗教法がそのまま社会の法となっていた。
*教会法とはカトリック教会が定めた法のこと。
すなわちあの社会の法律なのです。基本的にいいますと、ヨーロッパも啓蒙主義までは、体制としての宗教の社会であったわけで、教会法で何事も処理してい ました。日本には、こういう発想はいっさいありません
「宗教からの提言: なぜ他人の評価が気になるのか (山本七平)」
神が天地をつくり、そのあとアダムやイブといった人間をつくったという聖書の記述がそのまま社会の法律になる。
日本人にはこんな発想がまったくないから、「わけわからん」という状態になると思う。
魔女という反キリスト教的な人間は、宗教法から考えると存在することが「違法」だから、生きたまま焼き殺すことが合法で正義の行為になる。
ヨーロッパはこれを当然視していた社会から、宗教改革、啓蒙主義の登場、フランス革命などを経験し数百年かけて、多くの血を流しながら、少しずつ宗教から抜け出していった。
いまでは完全に脱・宗教社会となり、教会法は教会だけで通じる法で一般国民にはまったく関係ない。
だから逆にカトリックの神父が性的虐待事件を起こしても、彼らは教会法で裁かれるから、一般社会の法は手出しできないか、通用しにくいという話をドイツ人から聞いた。
韓国でも朝鮮王朝時代では仏教を排斥し儒教を国教にして、その教えが社会のほうになっていた。
それに対して、日本には歴史的に宗教法に支配されていた時代がない。
だから「脱」ではなくて、最初から体制としては「無宗教社会」だった。
戦国時代の15世紀に加賀(石川県のあたり)で、一向宗の信者が守護の富樫政親を倒して自分たちの国(百姓の持ちたる国)をつくった。その後1580年に織田信長に負けるまで、100年ほど政治と宗教が一体となった支配が行われていたから、あえて言うなら、そのとき加賀は宗教法によって統治されていたかもしれない。(加賀一向一揆)
ということで日本と欧米の社会では、見た目は同じ法治社会でも成立の過程が大きく違う。
だから、イスラム法によって統治される国や社会に対する理解については、日本人より欧米人のほうがずっと容易だろう。
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> 日本には歴史的に宗教法に支配されていた時代がない。
> だから「脱」ではなくて、最初から体制としては「無宗教社会」だった。
うーん、日本の人々が祭祀にあたって行う「儀式」なんてのも、外国人の目から見たら立派な「宗教的行為」にあたると思いますよ。それを「無宗教社会」と断定し表現するのは、ちょっと違和感がありますね。
日本は、「宗教法に支配された歴史がないから無宗教」というのではなくて、「一大宗教勢力に社会が支配されていた歴史がない」つまり「宗教と現実世界の政治の乖離」が早くから成立していて、宗教による支配力が弱かったのだと思います。
例えば天皇制を中心とした古代の政治なんてのは神道に基づく政治である(ただし具体的な法律を作るまではいってないが)と思うし、仏教だって加賀一向一揆を始め、寺社勢力が政治を担っていた地域は日本各地にありました。
昔から日本は多神教かつ異国の宗教導入にも寛容であって、一つの宗教勢力にまとまる傾向が非常に少なく、さらには織田信長・豊臣秀吉による政教分離の徹底、徳川幕府による寺社勢力取込み・支配の政策が功を奏した結果、人々は「一つの宗教に依存する(≒信頼する)傾向」が非常に少なくなったのだと思う。これは世界でも希な特徴の国です。
白人が侵略する前の米国先住民たちが、かつての日本と同じような「多派宗教社会」だったのではないかな。
まあでも、「天皇制」という半ば宗教的なアイデンティティーが1筋残っていたからこそ、幕末・明治維新期に外国勢力に蹂躙されずに済んだのだと思います。危ういところでした。
日本では大宝律令や貞永式目、明治憲法などがありましたが、すべて日本人がつくったものです。
仏教や神道の教えが法となった時代は一度もなかったという意味です。