大の親日家で台湾の観光情報や、統治時代の日本の建物などをSNSで発信している台湾のナイスガイがHsu Hsuさん。
そんな彼がきょう9月10日、こんなメッセージと写真を投稿をしてた。
「昨日は浜野弥四郎技師の生誕152周年記念日でしたが、昨日こちらには来られませんでした。一日遅れましたが、今日はようやく台湾台南山上花園台南水道博物館へ浜野弥四郎技師に献花しに来ました。
浜野弥四郎技師の莫大な功績は多くて、当時の台湾島でのメインな上下水道施設は全部浜野弥四郎技師の作品ですが、浜野弥四郎技師は退職して、大日本帝国に帰って行ってから、部下の八田与一技師が、台湾島でほかのもっと大きな水利施設を建設し続けてくださいました。
山上花園台南水道博物館には浜野弥四郎技師と八田与一技師の写真があります。
ようこそ台南へ。」
台南市にある浜野弥四郎(はまの やしろう:1869年 – 1932年)の像
浜野の功績を伝えるプレート(日本語もアリ)
台南山上花園水道博物館では、台湾での浜野の活動をくわしく知ることができる。
台湾の水事情に革命的変化をもたらした3人の日本人
浜野は八田与一の師でもある。
台南水道事業では上司として八田與一と出会い、八田は浜野から多くのことを学んだ。その後八田は同じ台南で嘉南大圳と烏山頭水庫の大事業を完成させている。
日本が統治をはじめた1895年ごろの台湾の衛生状態はおそろしく劣悪で、一部の上級国民はいいとして、庶民や貧民では雨水や川の水を飲む人も多く、居住地の各所にあった汚染水はマラリア、コレラ、アメーバ赤痢などの発生源となっていた。
そうした風土病が大きな原因で、当時の台湾人の平均寿命は30~40歳ほど。
第3代総督の乃木希典と一緒に台湾へ渡った母親は、マラリアのために2か月ほどで亡くなった。
手厚く保護されていたような人でさえ、簡単に死亡するほど台湾の衛生環境はひどかった。
そこにやって来たのが浜野弥四郎だ。
1896年に東京帝国大学の土木学科を卒業した浜野は、師のバートンが台湾の衛生インフラ整備事業で顧問を務めるになり、バートンの助手として台湾へと渡る。
現地の事情を調べたバートンと浜野は、衛生問題を解決するキーは上下水道の整備にあると考えた。
その後、バートンが風土病に倒れて亡くなったあとも、浜野は台湾で上下水道の整備のために尽力する。
そのひとつが1908年に完成した台北水道で、この水源によって12万人分の水を供給することが可能となり、台北市の水事情や衛生事情を一変させた。
これは現在、「自来水博物館」として台北市の指定古蹟になっている。
台湾に20年以上いた浜野は基隆、台中、嘉義、台南、屏東などの都市で水道事業に携わり、台湾の水道事情を劇的に改善させる。
なかでも7年以上の工事期間を経て1922年に完成させた、10万人の供給能力をもつ「台南水道」は浜野の大きな功績で、その地には彼の銅像が建てられた。
水を飲む人はその源を思えという「飲水思源」
果物を食べる人はその木を拝めという「吃水果拝樹頭」
先人の苦労に思いを寄せて感謝の気持ちを忘れないよう、こんなことばを大事にする台湾人はいま浜野弥四郎を「台灣水道之父(台湾水道の父)」と呼んでいる。
そんな彼の誕生日が明治2年9月9日。
150年以上たってもその日を祝いに来て、像に感謝の花束をたむける台湾人もいるのに、日本での浜野の知名度は絶望的に低いと思う。
残念だ。
こちらの記事もどうぞ。
台湾人がアニメを見て感じた「日本と台湾の学校との違い」とは?
コメントを残す