9月27日は「女性ドライバーの日」。1917年(大正6年)のこの日、栃木の20代の女性が自動車の運転免許をゲットして、日本初の女性ドライバーが爆誕した。
大正時代といえば、いまYOASOBIの「大正浪漫」が話題沸騰中。その時代の日本の雰囲気を伝える社会的、文化的な事象を「大正ロマン」といって、夏目漱石が「浪漫」の当て字をしたらしい。
明治の日本は欧米を参考にして国の近代化に全集中して、大正時代になると欧米の価値観が社会に浸透し、江戸時代の風潮はほとんど消えて、女性の権利が向上したり社会進出が進んだりした。
日本の女性が初めて車のハンドルを握ったりブラジャーを着けだしたり、東京に「バスガール(女性車掌)」が登場したのもすべて大正時代だ。
おしゃれな服を着て人生を楽しむ「モダンボーイ」や「モダンガール」なんて存在は明治には考えられなかった。


さて、「ハイカラさん」を体現したような下の女性をご存じだろうか。

この人物は朝吹 磯子(あさぶきいそこ:1889年 – 1985年)といって、大正時代にモデルや女優として活躍していた。
…と言っても信じそうな美ぼうなんだが、朝吹 磯子は俳句をたしなむ歌人で、テニスプレイヤーでもあったというかなりアクティブな大和撫子だ。
1920年(大正9年)にアメリカへ行ったとき、朝吹は米国テニス協会の会長から日本のデビスカップ参加をすすめられた。
*このときの日本人選手のウィンブルドン出場や、五輪でのメダリスト獲得が後押ししたと思われ。
ただデビスカップは個人ではなくて国別対抗だから、参加するにはテニス協会が必要になる。
朝吹はアクティブな女性だったようで、帰国すると学校やクラブの関係者と話を進めて理事を集めて、自分が会長となって日本庭球協会を組織した。
これがいまの日本テニス協会だから、その初代会長は女性だったことになる。
日本庭球協会を発足させたあと、30歳を過ぎてから朝吹磯子は本格的にテニスを始めて、1924年(大正13年)の第1回全日本女子庭球選手権大会ではシングルスでベスト4に入る。
朝吹は歌人としての活動も活発で『高砂嶋を歌ふ』、『歌集:環流』、『蒼樹』、『蒼旻』といった歌集を世に出した。
この歌はテニスのことを詠んだのだろう。
「長かりし 一夏(いちげ)も過ぎて 人あらぬ 高原のコートに 溶岩(バラス)を拾ふ」
日本初のテニス協会の会長で有名テニスプレーヤー、さらに歌人でもあった朝吹 磯子は西洋と和風が混在していた大正時代を象徴するような人物だった。

テニスコートでの朝吹磯子
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