では、まずは日本史クイズから。ででん。
1688年のきのう10月23日は、いったい何があったでしょう?
答え:京都に東山天皇、江戸に徳川綱吉がいた1688年のこの日、元号が貞享(じょうきょう)から元禄に変えられた。
誰が分かるか!って話デスネ。
元禄のころになると庶民の経済力が上がって娯楽を楽しめるようになり、浮世草子の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門が活躍したり、浮世絵の始祖といわれる菱川師宣があらわれたりした。
ほかにも人形浄瑠璃や歌舞伎など、いまの日本人が思い浮かぶ「江戸時代の文化」はこのころ花開いたものが多いことは知っておこう。(元禄文化)
菱川師宣『歌舞伎図屏風』
特定の時代に名前を付けて、その前後を区切る「元号」は飛鳥時代(645年)の「大化」に始まって、現在の「令和」まで約250個もあるのだ。
中国由来で日本の文化となった元号には、時代とともに変わったところもある。
東山天皇の時代にはこのあと宝永(ほうえい)と改元されて、貞享と元禄を合わせて三つの元号があった。
現代の日本では一人の天皇につき一つの元号という「一世一元の制」が基本となっているけど、昔はそうではなく、何かめでたいことがあるとゲン担ぎの感覚で、それに乗っかって元号を変えてしまうことがよくあった。
たとえば奈良時代には「白いカメ」という超激レアな生き物が見つかるなどして、カメ関連だけで三回も改元されている。
ベトナムには、背中に剣をのせたカメが湖から現われたという伝説がある。
1000年前の日本でこんなことがあったら、十分な改元理由になるはずだ。
現代の「一世一元の制」と違って、昔の日本には先ほどのように縁起の良いこと(吉事)があったら改元する「祥瑞改元」や、不吉なこと(凶事)が起きたらその負の影響を断ち切るために改元する「災異改元」 などがあった。
これはつまり、気分の問題だ。
元号の変更には「時代が終わった(始まった)」と国民の気持ちをリセット、リフレッシュする効果がある。
「一度改元したら、最低でも〇〇年はそれを使いましょー」なんてルールはなく、結局は気持ちしだいだから、あっという間に改元されたこともあった。
それが1860年の万延(まんえん)という元号だ。
このときの江戸幕府は呪われたようにツイてなかった。
1858年~60年にコレラが流行し、1859年(安政6年)には江戸城で火災が起きて本丸御殿が焼失。
翌60年には幕府のVIPである大老の井伊直弼が、江戸城近くで暗殺される「桜田門外の変」が起きた。
不吉なことが続き、国内に広がる嫌な雰囲気を一掃するため、1860年(安政7年)4月8日に安政から万延に改元された。
と思ったら、翌61年(万延2年)3月に今度は「文久」という元号に変えられた。
「万延」は完全に名前負けでこの元号は11カ月間と、35ある江戸時代の元号の中で「最短」の称号を手に入れてしまった。
高校生の恋愛だってもう少し長つづきするだろ。
この改元にはもちろん反対はあったものの、孝明天皇の“推し”が通ったらしい。
1年足らずのための改元はおかしいとする異論が出されたものの、黒船来航以来の国内の混乱に危機感を抱いた孝明天皇の強い意向を受けて行われたのだという。
さて、下の人物は嘉永2年(1849年)に生まれた仏教学者で宗教家の南条 文雄(なんじょう ぶんゆう)という。
安政~万延~文久の三つの時代を生きた南条文雄は、著書『懐旧録―サンスクリット事始め』(東洋文庫)で、
「万延という年号は一年しかつづかないのだから皮肉のかぎりである。」
とあきれた。
嘉永に生まれた南条文雄は上の三つのほか、元治、慶応、明治、大正、昭和と生涯で計九つの元号を経験しているのだ。
「祥瑞改元」や「災異改元」という、気分しだいの改元があった昔の日本ではこんなコトが起こり得る。
平成から令和に変わったときは各方面で大変だったのに、九回も改元されたら国民の激怒はもはや避けられない。
「元号廃止💢」がツイッタートレンド入りするかも。
でもって、過労死ラインを軽く越えるプログラマーやエンジニアが続出するはず。
明治天皇が「一世一元の制」を定めてくれて本当によかった。
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