【ガダルカナル島の戦い】日本陸軍の墓地、米軍には感動の名

 

ちょうど一週間前、11月23日は勤労感謝の祝日だったから、みなさんアニメやマンガを見て充実した1日を過ごしたと思う。
だがしかし、73年前のこの日はまだ太平洋戦争の真っ最中で、オーストラリアの近くにあるタラワ環礁のベティオ島にいた日本人はこの世の地獄を見た。
「時代ガチャ」でいえば、とんでもないハズレを引いてしまった人たちだ。

このタラワの戦いが始まる4ヶ月ほどまえ、1943(昭和18)年7月にこの地へ着任した司令官の柴崎恵次少将は、要塞化された島を見て回り、鉄壁の防御施設に満足してこう豪語したという。

「たとえ100万の敵をもってしても、この島をぬくことは不可能であろう」

あ、これ死亡フラグでは…。
そんな悪寒がしたら、やっぱり不幸な結果に終わった。

柴崎少将は戦闘司令所を負傷者の治療所に提供し、自らは参謀や司令部要員を連れて外海側の防空壕に移った。しかし、その防空壕に直撃弾が命中し、柴崎少将は戦死した。

タラワの戦い

柴崎恵次

 

11月21日に米軍が上陸したことで始まり、23日に日本軍が最後の突撃をおこない玉砕してこの戦いは終結した。
この激戦で日本側は約4700人の戦死者を出す大きな損害を負った一方、アメリカ側も1000人以上の死者を出したことから、「恐怖のタラワ(terrible Tarawa)」や「悲劇のタラワ(tragic Tarawa)」と呼ばれるようになる。

日本軍の死亡率が特に高かった理由として、アメリカ軍が無抵抗の日本兵や軍属までも皆殺しにしたから、という説もある。

 

タラワに上陸を試みる米海兵隊員たち

 

 

タラワの戦いは初耳でも、この前年に行われた「ガダルカナル島の戦い」(1942年8月7日 – 1943年2月7日)なら知ってる人も多いはず。
この戦いを落としたことが、タラワの悲劇につながった。

ガダルカナル島での戦いの緒戦を任されたのは、陸軍歩兵学校で教官をしていた経験をもち、実兵指揮に練達した一木 清直(いちききよなお)大佐。
一木は日本陸軍の得意とする白兵銃剣による夜襲をおこなえば、アメリカ軍は簡単に撃破できると確信していて、出撃する際には「 ツラギ(島)もうちの部隊で取ってよいか」と参謀にたずねる。

が、この余裕たっぷりの言葉も不幸フラグだった。

一木大佐はすでに打つべき手段もなくなったと感じて、午後三時頃、軍旗を奉焼して自決して果てた。部下の将兵の大部分も支隊長に従ってそこで壮烈な戦死をとげた。

「失敗の本質 (ダイヤモンド社)」

 

アメリカ軍にとって、このガダルカナル島での緒戦を勝利で飾った意義は本当に大きく、海兵隊は自信を得て士気が高まった。
海米軍の戦史にはこの戦いについて、「From that time on, United States Marines were invincible(このとき以来、アメリカ海兵隊は向かうところ敵なし)」と書かれている。
実際、このあとの戦闘で勝ちまくって、アメリカ軍はガダルカナル島を手に入れることに成功した。

日本陸軍が初めて敗北したのがこのガダルカナル島の戦いで、それ以来、日本軍は劣勢に立たされることとなる。
この決戦は太平洋戦争における決定的なターニングポイントになったから、重要性でいえばタラワの戦いのずっと上にある。
アメリカ側はこの戦いを「ガダルカナルとは、島の名ではなく感動そのものである」と表現し、日本で伊藤正徳が「それは帝国陸軍の墓地の名である」といった。
そう。ガダルカナルとは、約2万人の日本人が眠る巨大な墓地なのだ。
そこから米軍が北上したタラワも、帝国陸軍の墓地の一つとなった。

 

動画には日本兵の遺体が出てくるので、そのつもりで。

 

 

 

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2 件のコメント

  • 当初の近接戦闘重視は大陸で国府軍相手に戦果を上げていた戦法だったので
    米軍にも通用すると硬直思考になっていたのが悲劇の一旦だったかと思います。

    そもそも南方に進出して一帯を占領すると言うドクトリンが無かったにも関わらず
    あの様な戦争になってしまった時点で・・・

    さて、そんな中こんな軍人さんも居た事を紹介できればと思います。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%A0%84%E4%B8%89

    記述にあるとおり、マニュアルが前線に届いた後は米軍も楽勝とは行かなくたった様です。
    残念なのは、能力があってもそれが発揮出来ない組織になっていた当時の(今も?)日本ですね・・

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。