ある日本人の女性がオランダで働いていたとき、南米のスリナム出身の女性からこんな質問をされた。
「日本のマスターズ・カントリーはどこですか?」
マスターズ・カントリー?
質問の意味をつかみかねていると、スリナム人が「どこだったのですか?」と聞き直す。
それでようやく日本人は、相手が何を聞いているのかを理解した。
驚いたのは、マスターズ・カントリー(ご主人様の国)という言葉。彼女は日本がヨーロッパのかアメリカの植民地になっていて、マスターズ・カントリーを持っていると思っているらしい。
「一度も植民地になったことがない日本 (講談社+α新書) デュラン・れい子 」
それで、日本は一度も植民地になったことがないと伝えると、スリナム人の女性は「信じられない」という顔をした。
インドネシアへ行ったときにも、そんな話を聞いたことがある。
現地に住んでいる日本人がインドネシア人からこれと同じ質問をされて、「日本はどこの国の支配も受けたことがない」と言うと、「本当ですか?」とビックリされたという。
インドネシアがオランダの植民地だったように、そのインドネシア人も日本にはマスターズ・カントリーがあると思い込んでいた。
ボクは直接会ったことはないけど、過去の歴史で、全ての有色人種が白人の支配下にあったと当然のように考えてる人もいる。
だから日本のような例外もあると知ると驚く。
日本がどこの国にも主権を奪われず、独立を守ることができワケについては、きょう3月7日と2日前の5日はかなり重要な日だ。
160年ほど前の京都にタイムスリップすると、1863年に禁門(京都御所の門)で薩摩藩と長州藩が戦う禁門の変が起きて、それに負けた長州藩は敗走し、天皇の敵である「朝敵」の汚名を着せられた。
これで薩摩と長州の敵対関係は決定的になる。
*いまも京都御所の門にはこのときの銃弾の痕が残っている。この記事の上の写真がそれ。
でも時代が動いて、「新しい日本のためには、どうしても徳川幕府を倒さないといけない!」という空気になり、1866年のきょう3月7日、坂本龍馬や中岡慎太郎が間に入って、日本国の未来のために過去の恨みは水に流し、薩摩藩と長州藩が手を結んで薩長同盟が成立した。
この日は旧暦だと1月21日だから、現在では「ライバルが手を結ぶ日」という記念日になっている。
日本の最強レベルにあった藩の薩長がタッグを組んだ2年後、1868年の3月5日に、徳川慶喜が江戸城を出て上野の寛永寺へ移動した。
この間にあったのが、日本の歴史を決定づけた江戸城の無血開城だ。
この直前、薩長をはじめとする新政府軍が戊辰戦争で幕府軍を圧倒して、本拠地である江戸城に近づいてきていた。
ここで両者が全面衝突すると、江戸の町は破壊されて多くの死者が出ることは確実で、どっちが勝っても疲弊して、欧米諸国につけ入るスキを与える可能性が大きい。
下手したら、そこから日本は植民地へ転落するかもしれない。
そこで一触即発の緊張した雰囲気のなか、勝海舟と西郷隆盛が会見を行うこととなる。
江戸城の包囲網は完成しつつあり、緊迫した状況下における会談となった。しかし西郷は血気にはやる板垣らを抑え、勝らとの交渉が終了するまでは厳に攻撃開始を戒めていた。
このとき幕府は徳川慶喜の恭順などを条件に、江戸城を明け渡すことを西郷に伝えた。
この無血開城によって日本人同士が戦い合い、日本が欧米の植民地になる危機を遠ざけることができた。
明治時代になってから、勝海舟がこの無血開城についてこう話している。
おれが政権を奉還して、江戸城を引き払うように主張したのは、いわゆる国家主義から割り出したものさ。三百年来の根底があるからといったところで、時勢が許さなかったらどうなるものか。
かつまた都府(首都)というものは、天下の共有物であって、けっして一個人の私有物ではない。
江戸城引き払いのことについては、おれにこの論拠があるものだから、だれがなんといったって少しもかまわなかったさ
「氷川清話 (講談社学術文庫)」
徳川慶喜も日本や江戸を私物化することなく、天下の共有物と思ったから政権を天皇へ返上して、自分はおとなしく江戸城を出て、上野の寛永寺で謹慎生活を送ることにしたはずだ。
日本が植民地にならなかった大きな理由に、そのときのリーダーたちが個を超えて、日本全体を大切にする意識を持っていたことがある。
「あなたの国のマスターズ・カントリーはどこですか?」と当たり前のように質問する人の国では、過去の大事な場面でこうした考え方が薄かったと思う。
国を動かす人たちが自分の利益だけは守ろうとして、国全体を犠牲にするような判断をしてしまった。
この点は、自分の立場や私怨に固執することなく、薩長同盟を結んだり、江戸城を無血開城したご先祖さまは立派だった。
> インドネシアがオランダの植民地だったように、そのインドネシア人も日本にはマスターズ・カントリーがあると思い込んでいた。
これ、東南アジアにおいては、昔よりも誤解している人が増えているような気がします。その理由は多分、少し昔の方が、太平洋戦争で日本が欧米にケンカを売ったことをまだ覚えている年寄りが多かったことによるのでしょう。それともう一つ、最近の東南アジアの若者が、自国以外の歴史をあまり勉強していないことにもよるのかな?
> 「あなたの国のマスターズ・カントリーはどこですか?」と当たり前のように質問する人の国では、過去の大事な場面でこうした考え方が薄かったと思う。
> 国を動かす人たちが自分の利益だけは守ろうとして、国全体を犠牲にするような判断をしてしまった。
うーん、どうかな? それはちょっと言い過ぎのような気がします。
長い歴史の中で日本が独立を保ち続けることができた最大の理由としては、やはり、極東の島国であったという幸運が大きいと考えます。今のように世界が狭くはなかった時代、日本と大陸とを隔てる「広すぎない海」は、天然の「堀」として効果的であったのでしょう。(井沢元彦氏の説だったか?)
ただしもちろんそれだけではなく、外国からいかなる「働きかけ」があろうとも、先人たちの独立を保とうとする「意気込み」および「大局的判断」もあったればこその話なのですが。