北京冬季五輪が終わってみると、ドイツはそり種目だけで9個の金メダルを手に入れた。
「圧倒的じゃないか、我が軍は!」というほど、ドイツがこの種目に強い理由には悲しい分断の歴史がある。
東西ドイツがまだ別々の国で互いをライバル視していたころ、1968年に西ドイツが初めて人工コースを建設すると、東ドイツも対抗してアルテンベルクに競技場を建てる。
このあとも次々と競技場を建てていった結果、いまのドイツには、国際規格のスライディングセンターが世界最多の4つもある。
そり種目でドイツが世界最高レベルにいるワケには、長くて悲しい分断の歴史があったのだ。
朝鮮日報(2022/02/23)
1960年代からは政府を挙げてそり制作技術にも集中投資してきた。競技場の規模や装備の性能が競技力を大きく左右するそり種目でドイツが独走しているのにはこうした理由があるのだ。
北京冬季五輪:オランダでスケート、ドイツでそりの自慢しちゃダメ
ちなみにスケート競技でオランダが強いワケは、国土に山が少なくて、冬になると川や運河が凍って「野外スケート場」が国中にいくつもできるからで、日本がスキージャンプに強いのは、気候がこの競技に適切であることと、1998年に長野五輪を招致したときからの集中育成のおかげらしい。
さて、きのう3月15日は、1991年に統一ドイツが完全に主権を回復した日だ。
第二次世界大戦後、敗戦国となったドイツは東西に分裂し、ベルリンの東地域はソ連の占領下に置かれ、西はアメリカ・イギリス・フランスが占領した。
初めのころは東西の移動は自由にできていたが、それだと社会主義の東ドイツから、自由民主主主義の西ドイツへ移動する人が続出。
それで国民の流出を防ぎ、自国の体制を守るために東ドイツは1961年に突然、ベルリンの壁を築いて通行を不可能にしてしまう。
これを建設するとき、ベルナウアー通り(Bernauer Straße)にある建物の壁をそのまま「ベルリンの壁」としていたから、多くの人がそこから飛び降りて西へ脱出した。
これだけでも、社会主義国家が失敗だったことが分かる。
この高さだから、何人もの東ドイツ国民が「自由への脱出」で命を失った。
その一人の「Ida Siekmann」(機械翻訳だとアイダ・シークマン)は、ベルリンの壁ができてから初めての死亡者になったことで有名だ。
相当あせっていたようで、彼女は西側にいた消防隊員が救助用のシートをちゃんと開く前に飛び降りて、大けがをしてその後亡くなる。
壁の建設が始まってから、9日後のことだった。
Siekmann jumped before the firefighters were able to properly open the jumping sheet, and was severely injured when she fell on the pavement.
画像:Willy Pragher
国民の逃亡を防ぐため、窓が覆われた建物(1965年)
生活を豊かにするのではなく、国民を閉じ込めようとする国家が崩壊するのは歴史の必然だ。
1990年10月3日、東ドイツが自滅するカタチで西ドイツへ編入され、ドイツは再統一を果たしてベルリンの壁は観光名所となる。
そり種目で金メダルを独占する強国になったとしても、この分断の歴史で失われた犠牲を埋め合わせることはできない。
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