きょう3月21日は、日本人にとってとても悲しくなる日。
1945年のこのころは太平洋戦争の末期にあって、南太平洋の重要ポイントを手に入れた米軍が東京大空襲など本土への爆撃を行っていて、日本の敗戦はかなり現実的になってきた。
そしてこの年の3月21日、自爆攻撃であるロケット特攻機の「桜花」が初めて実戦で使われる。が、米軍の攻撃を受けて部隊は全滅し、戦果をあげることはできなかった。
この「桜花」とは、大型爆弾を搭載した小型飛行機のような特攻兵器のこと。
母体となる飛行機につるされた状態で飛び立ち、攻撃目標となる米軍の艦船に近づいたら切り離されて、そのまま突っ込んで操縦者の命と引き換えに大きなダメージを与えるという兵器だ。
「大型爆弾を搭載した」というより、爆弾が主体でそれに羽や尾翼を付けたようなもの。
この動画が分かりやすく説明してくれてる。
もはや米軍の本土攻撃は避けられない状況になって、日本海軍は有力な対抗兵器として桜花を開発する。
桜花は母機から切り離された後、固体燃料ロケットで一気に加速して、敵の防空網を突破して敵艦に体当たりをするよう設計されていた。
神風特攻隊の戦闘機とちがって桜花の航続距離は短く、母機をできるだけターゲットに近づけないといけなかったから、当然リスクはものすごく高くなる。
アメリカ人やイギリス人には、兵士に確実な死をもたらす「自殺攻撃」なんて発想がなかった。
だからこんな兵器は理解不能で、連合軍には日本語の「バカ(愚か)」にちなんで「Baka Bomb(Baka)」のコードネームで呼ばれていたという。
はじめ米軍はこれに人が乗っているとは考えず、桜花を奇妙な物という意味で「Gizmo(ギズモ)」と表現した。
日本軍がマリアナ沖海戦で敗北した後、1944年6月には岡村基春大佐が上層部にこう進言する。
「戦勢今日に至っては、戦局を打開する方策は飛行機の体当たり以外にはないと信ずる。体当たり志願者は、兵学校出身者でも学徒出身者でも飛行予科練習生出身者でも、いくらでもいる。」
この人命軽視の発想、絶望的な状況の延長に桜花がある。
1945年3月17日、桜花は正式に兵器として採用されて、21日に実戦投入された。
でも、大型爆弾を抱えた桜花を抱えた母機の動きは遅く、パイロットは決死の覚悟をもっていても、機体は米軍戦闘機にとっては格好の射撃の的でしかなかった。
陸攻隊はベレンド小隊とホーネット隊の攻撃で次々と被弾し、これまで大事に抱えてきた桜花を投棄して回避しようとしたが果たせず15分の空戦で全滅した。
ただ命中すると桜花の破壊力はすさまじく、その威力は米軍を恐怖させるには十分。
桜花の体当たりを受けた駆逐艦マナート・L・エベールは、船体が真っ二つになって撃沈されて、米軍は桜花をもっとも危険な兵器と考えるようになる。
沖縄戦を取材していた作家のジョン・トーランドは著書『The Rising Sun 大日本帝国の興亡』にこう書いた。
「桜花を『BAKA』と蔑んでみても、アメリカ軍艦隊全体に広まった恐怖は決して和らぐことはなかった。」
歴史家で米海軍の軍人でもあったサミュエル・モリソンもこう記述する。
「小型なことと、とてつもないスピードのため、BAKA(桜花)はわが軍の艦船に対する最悪の脅威となった。それは、ロンドンを襲ったドイツの誘導ミサイルにほぼ匹敵する脅威となった。」
アメリカ軍に大きな恐怖を与えた桜花。
だがしかし、初めて実戦投入された3月21日、隊を指揮して亡くなった野中少佐は基地から飛び立つ直前にこう言った。
「ろくに戦闘機の無い状況ではまず成功しない。特攻なんてぶっ潰してくれ。」
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