日清戦争の3年後、福沢諭吉が「日中友好」を主張したワケ

 

1898年(明治31年)のきょう3月22日、新聞『時事新報』に「支那人親しむ可(べ)し」の文章が掲載された。
*「支那人」とは中国人のこと。現代では侮辱語になるからNG。

これを書いたのはハッキリとは分からんけど、福沢諭吉と考えられている。
1895年に日清戦争で勝利した日本は、下関条約で清にこんな条件を認めさせた。

・清は朝鮮の自主独立を認めること。
・清は遼東半島や台湾などを日本にゆずること。
・清は賠償金として2億両を日本に支払うこと。

中国にとっては屈辱的な要求をのませた3年後に、「日本人は中国人と仲良くなるべき」というのは一体どういうことなのか?

 

たしかに下関条約によって日本は、遼東半島を手に入れた。
でもそのあとすぐ、ロシア・フランス・ドイツが日本に「遼東半島を中国に返せ!」と迫る三国干渉があったことは歴史の授業でならったはず。
日本が力をつけて強大になることは、こうしたヨーロッパ諸国にとってはマイナスだから、出る杭はその前に打っておく必要がある。
中国に勝つことができた日本でも、この列強三カ国を敵にするのは無理だから、せっかくの勝利の果実は中国へ返還することにした。泣く泣くと。
しかし日本政府は「臥薪嘗胆」(がしんしようたん)をスローガンに、ロシアとの戦争の準備を急ぐようになる。

遼東半島が戻ってきて喜んだ清は、すぐに厳しい現実を突きつけられた。
当時の欧州列強が善意や良心でこんなことをするはずがなくて、三国干渉によってロシアは遼東半島の先端部(租借権)を手に入れて、ドイツは1897年に膠州湾をゲット(租借)した。
このあと結果的に、欧州諸国は清の分割支配に本格的に乗り出し、清国内では西洋の影響がどんどん強くなっていく。
こうした浸食に危機を感じ、西洋諸国への警戒心が高まったことで、清は日本への態度を変える。
友好的な態度を取るようになり、例えば150名の留学生を日本に送って学ばせた。

日本は日本で、西洋諸国は自己中で利己的で、信用できない部分があると思ったのだろう。
福沢諭吉はいまこそ日本は清と友好を深めるべきだと主張し、「支那人親しむ可し」の中でこう主張。

「そもそも、日本人も清国に対して無欲ではない。そして、日本人が清国に求めるものは、土地でもなく人でもない。ただ貿易をおこない商売して互に利益をあげることである。そのためには日本人は清国人に近づき、互に親しむことが重要である。」

 

下関条約が結ばれた1895年に福沢諭吉は、文明開化や近代化に成功した日本は中国や朝鮮とは距離を置いて(脱亜)、欧米列強に近づくべき(入欧)という『脱亜論』を発表した。
近代化を拒否して、昔のままの儒教的な価値観や政治体制に固執する中国・朝鮮について、「不幸なるは近隣に國あり」と福沢はわりとボロカス書く。
まあ21世紀の常識や価値観から、この文章を非難しても無意味なわけだが。
日本の明治維新のような改革を自ら行わない限り、中国・朝鮮は「今より數年を出でずして亡國と為り」、西洋列強によって分割されるだろうという予測はだいたい的中させた。
このへんの読みはさすがミスター1万円。

でもこの3年後、福沢は「支那人親しむ可し」を発表して日中友好を強調する。
日本は中国は商売を行ってお互いに利益をあげることが大事で、そのためには日本人は清国人に近づいて仲良くなるべきだという。
好き嫌いの個人的な感情は置いといて、日本にとっての最善の利益を考えれば、中国とは良い関係、良きビジネスパートナーでいることは令和のいまでも重要だ。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。