きょうは3月31日で、あしたから4月が始まる。
いま日本中が桜色に染まっていて、このまえ東京の各地をめぐって「桜狩り」を楽しんだ外国人が、とくに感動したという上野公園についてSNSにこう書いた。
「Ueno Park (Ueno Park, Ueno Kōen) is a spacious public park in the Ueno district of Taitō, Tokyo, Japan (especially for Hanami)」
上野公園は東京・台東区上野にある広々とした公園、特に花見には最適です。
大正13年に宮内省から東京へ譲られた(下賜された)ことから、正式には「上野恩賜公園」というこの場所は、浅草や飛鳥山と一緒に日本で初めて公園に指定された由緒あるところ。
”日本最古”と言っていいこの上野公園は、いまでは一年を通じて日本人や外国人に親しまれているが、約140年あるその歴史の始まりはわりと凄惨だ。
そのころここには死体がころがって、おびただしい血が流れていたのだから。
ちょいとタイムトラベルして1868年の春ごろの江戸へ行ってみると、庶民には花見を楽しむ雰囲気はなく、強い緊張に包まれていた。
というのはこの時は戊辰戦争の最中で、薩摩・長州を主力とする新政府軍が江戸城に迫っていて、ここで幕府軍との最後の決戦が行われる可能性が高かったから。
そうなったら江戸中が炎に包まれて、一体どれだけの人が死ぬのか。
でもそこは同じ日本人同士だから幕府側は戦いを避け、勝海舟と西郷隆盛との間で会談が行われて江戸城の無血開城がきまった。
後年、この時をふり返って勝はこういう。
「都府(首都)というものは、天下の共有物であって、けっして一個人の私有物ではない。」
くわしいことはこの記事を。
でもこの対応に不満をもち、新政府軍との妥協を堕落と考えたのが、「大義を彰(あきら)かにする」という意味で名づけられた彰義隊(しょうぎたい)の人たち。
薩長を敵とみていた人が続々と集まって、3000~4000人いた時期もあったという。
平和を第一に考えて無血開城した勝海舟は新政府軍との武力衝突を心配し、彰義隊に解散するよう求めたけど拒否られた。
彼らの新政府に対する憎悪や敵対姿勢は変わらず、彰義隊の隊士が政府軍兵士を殺害する事件まで起きるようになる。
こうなると新政府側も「もう無理。あいつら殲滅するわ」となって、上野の寛永寺を拠点としていた彰義隊を武力でたたき潰す上野戦争が始まった。
この機会に江戸にいる幕府の残党を根絶やしにしようと、新政府軍は超ホンキになる。
軍の配置を見た西郷隆盛が「皆殺しになさる気ですか」と驚いて聞くと、作戦を指揮した大村益次郎は「そうです」と静かに答えたという。
そして1868年の7月4日、彰義隊と新政府軍との戦いが始まった。といっても彼我の戦力差は明らかで、実質的には”虐殺”だ。
この日の夕方ごろには戦闘は終わり、彰義隊はほぼ全滅して、かろうじて生き残った隊士は必死の思いで敗走した。
戦場となった上野の寛永寺は焼け落ち、その敷地は下のような焼け野原となる。
上野戦争で生まれた広大な更地をどうするか?
1870年に明治政府はここに医学校と病院を建てようと考えて、まずはオランダ人医師のボードウィンに見てもらうことにした。
するとそこを視察したボードウィンは、「あの自然はスバラシイ!ゼッタイ残すべきです。公園にしましょうう!」と進言して(想像)、明治政府も「へ~。そうなんですね」となり、1873年にここが日本初の公園に指定された。
そんなことから彼は上野公園の生みの親と言われていて、公園には「ボードワン博士像」がある。
明治時代に上野公園に足を運んだフランス人の作家ピェール・ロティは、「日本のブローニュの森であり、またシャン・ゼリゼである上野」とここを称賛した。
現代でも外国人が「a spacious public park(広々とした公園)」で、花見に最適と上野公園には好意的だ。
でもその始まりは、幕府の残党である彰義隊が立てこもって、これを新政府軍が包囲殲滅した戊辰戦争のひとつ、上野戦争にある。
「桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている」と梶井基次郎がいうように、上野公園を掘り返したらいまでも彰義隊の…。
いや、何でもないです。みんなで花見を楽しもうじゃないですか。
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