きょう6月4日の記念日は、説明不要のわかりやすさの「虫の日」。
で、話はタイムスリップして明治時代、お雇い外国人としてやってきたアメリカ人の学者モースは東京の街中でこんな光景を見た。
*螇蚸はバッタ
ある行商人は小さな籠の入った大きな箱をいくつか運んでいたが、この籠の中には緑色の螇蚸が押し込められたまま、我国に於る同種のものよりも、遙かに大きな音をさせて鳴き続けていた。
「日本その日その日 (モース エドワード・シルヴェスター)」
当時の日本の子どもはこうした「虫売り」の行商人からバッタを買って、エサに砂糖をあげて家の中で飼っていた。
モースは「我々がカナリヤを飼うように」と書いているから、アメリカ人なら鳥をペットで飼うことはあっても、バッタはなかったらしい。
話は現代に戻って去年の秋ごろ、ドイツ人とスカイプで話をしていたとき、「何か雑音が聞こえる。電波の状態が悪いようだ。そっちはどうだ?」と聞いてくる。
こっちは感度良好で異常ナシと言うと、「そうか。じゃあこちらの問題かな。場所を変えてまた連絡するよ」と言って彼が遮断する。
しばらくすると、別の部屋に移った彼から連絡があって、スカイプをつないで話をすると「変だな?まだ雑音が聞こえる」と彼はまた首をかしげる。
答え合わせをしていくとその“雑音”とやらの正体は、ボクの家の周囲で鳴いているコオロギの声だったことが判明。
ドイツにもコオロギはいるし鳴き声も聞こえてくるけど、ネットでつないでいるせいか音がなんか違うし、ドイツのコオロギより声が大きいように思うと言う。
日本のバッタについて、モースはアメリカのものより「遙かに大きな音をさせて鳴き続けていた」と書いていたから、ドイツとバッタとは種類が違うかも。
日本ではコオロギの声を聴く文化があって、虫かごに入れて家で飼って音色を楽しむ人がいると話すと、ドイツ人は「ええっ!」と声を上げて驚く。
彼いわく、ドイツでコオロギは“ただの虫”で特に人気はないし、個人的に鳴き声は好きだけど、家で飼うという発想はない。そんなことをしたら、親に捨てられるかもしれない。
そうか。
じゃあ日本みたいにペットショップで、虫かごに入れられたコオロギが売られていることもないのか。
と思ったら、ドイツにもペットショップにコオロギはあるという。
でもそれは、ペットのハ虫類のエサとして販売しているだけで、人がその音色を楽しむためではない。
「ええっ!」と今度はこっちが驚いた。
いや、それは残酷では…。
でも、世界的にはコオロギの声を楽しむ日本人みたいな人は少数で、「食用」としての需要の方が高いのでは。
日本でもネット通販を見ると、ハ虫類・両生類・大型魚の生餌としてコオロギが販売されている。日本でも全体としては、エサとしてコオロギを使う人の方が多いのか?
「いただきます」の精神で生き物はいろんな命を食べて生きているから、コオロギが尊い犠牲になって仕方ない。
にしても、日本とドイツではコオロギに対する見方がかなり違うな~。
> この籠の中には緑色の螇蚸(バッタ)が押し込められたまま、我国に於る同種のものよりも、遙かに大きな音をさせて鳴き続けていた。
私が知る限り、日本語で「バッタ」と言ったらトノサマバッタとかショウリョウバッタとか、ぴょんぴょん跳ねるけど鳴かない虫のことです。ですが、その「バッタ類」という昆虫学上の分類には、「コオロギ」「キリギリス」「マツムシ」など鳴く昆虫の科目も含まれるそうです。なので、モースが言った(ドイツ人が考える)「バッタ」は、日本語の「螇蚸(バッタ)」とは意味が同一ではないのかもしれません。
そのスカイプ通話相手のドイツ人が、コオロギの鳴き声を「雑音」と勘違いしたのは、いかにもありそうな話です。人間の脳は何らかの音が「雑音」であると一度認識してしまうと、以降はその音を意識的に捉えることができず、正確に認識できないようになってしまうらしいです。つまり風の音なんかと同じ扱いなのか?
欧米人の場合、野山で聞こえるトンビやヒバリの鳴き声も一般的には「雑音」「騒音」と捉える人が結構多いようですよ。TVドラマや映画の屋外ロケ場面でも、背景雑音としてカットされてしまう場合が多いです。