【罪己詔】義和団事件での西太后は、控えめに言ってクズ

 

19世紀後半、強大な武力を背景にして、西洋人がズカズカと中国へやって来ると、現地では激しい反発がおきた。
祖先を祀る中国の伝統的な信仰を、「邪教」として否定するキリスト教も民衆の憎悪の対象となって、1870年のきょう6月21日に天津教案がぼっ発。
この事件が起こるまえ、教会が運営している孤児院で子供が殺されているという根も葉もないウワサが流れると、これを信じた民衆に教会を襲撃し、そこにいたフランス領事を殺害した。
そして惨劇が始まった。

さらに10人の修道女、2名の神父、2名のフランス領事館員、2名のフランス人、3名のロシア人、30人以上の中国人信者を殺戮し、フランス領事館とフランスやイギリスの教会を焼き討ちした。

天津教案

義和団のメンバー

 

中国人の西洋人に対する憎悪はそのまま残るかむしろ深まっていき、1900年に秘密結社「義和団」による義和団事件が起こる。
欧米やキリスト教を敵視していた彼らは教会を焼いて、キリスト教徒を殺害する排撃運動(教案)をおこない、西洋列強に不満を持ってい者や失業者などを吸収し勢力を拡大していく。
上の天津教案も義和団によるものではないけれど、このころ中国であった教案のひとつ。

中国から外国勢力を追い出そうとする義和団は「扶清滅洋」(ふしんめつよう:清を扶〔たす〕け洋を滅すべし)のスローガンをかかげていたから、本来ならこうした暴徒を鎮圧すべきだった清朝政府も西洋列強に反感を持っていたから、義和団には見て見ぬふりで積極的な対応はせず。
結果、1900年6月に、20万人といわれる義和団の兵士が北京に侵入してくる非常事態が発生し、欧米列強と日本は言葉を失った。(義和団事件
こうなると「天津教案」と同じ惨劇が壮大な規模で起こる可能性が高い。
最高権力者だった西太后は義和団に賭けて6月21日、列強に対して宣戦布告をだす。
西太后の無謀すぎるチャレンジで、「義和団&清軍 vs 八カ国連合軍」の戦争に発展した。

 

八カ国連合軍の兵士
左からイギリス、アメリカ、ロシア、イギリス領インド、ドイツ、フランス、オーストリア=ハンガリー、イタリア、日本

 

このころイギリスは南アフリカでのボーア戦争、アメリカはフィリピンでの戦争で忙しかったこともあり、中国に近い日本に「お願いします」となって、お願いされちゃった日本は連合国軍の中で最大の兵力を投入する。

当時の欧米日の列強が一つになった。
アニメでいうならサイタマ、リムル=テンペスト、孫悟空、五条悟…がそろったチート集団みたいな八カ国連合軍に勝てるはずもなく、清軍と義和団はつぎつぎと撃破・せん滅されていく。
8月に北京攻略を始めた連合軍はあっという間に、翌日に陥落させて、北京にいた欧米人や日本人を保護した。
清軍を蹴散らしながら連合軍が迫ってきて、青くなって震えた西太后は北京陥落の直前、貧しい庶民に変装して紫禁城を抜けだして西安まで逃亡。
その途中、北京の事情を知らなかった地方の中国人には、「ここへは狩りをしに来た」と西太后が優雅に答えたという話を中国人ガイドから聞いた。

首都を落とされて敗北が確定的になると、西太后は自分だけは守りたい一心で、歴史に残る手のひら返しを開始する。
中国皇帝は自分の行為が間違っていたことを認めると、それを公式に反省して、政策を変更するために「罪己詔」(ざいきしょう)を出す。
皇帝を責めることのできる人間は地上に存在しないから、自分で自分の罪を責めるという中国皇帝らしい詔。
これで西太后は宣戦布告を「チャラ」にしたと考えたのだろう。
西太后の意向(心変わり)を受けた清朝政府は、義和団を反乱軍と認定して攻撃する。
簡単に裏切られて激怒した義和団は「扶清滅洋」のスローガンを「掃清滅洋」(清を掃〔はら〕い洋を滅すべし)にスイッチする。
一方で西太后はまた北京でゴージャスに暮らすため、李鴻章に列強と和議を成立させるよう命令を出す。
そのとき彼女が言った言葉はとても有名だ。

「中華の物力を量りて、與国の歓心を結べ」
(清朝の〔西太后の〕地位さえ保証されるなら金に糸目はつけるな)

おびただしい数の義和団メンバーの死体の上に、戦後処理の北京議定書が1901年9月に調印された。
「自分と清朝さえ存続させてもらえるのなら、何でも出す」と言った西太后の返事はイエスかハイしかなく、列強の要求を一方的にのみ、莫大な賠償金のほか、警察権を列強国に引き渡したり、北京や天津の重要な都市に列強の軍隊をおく権利を認めて中国は半植民地状態となる。

賠償金の負担で民衆のさらに一層、生活は苦しくなる。
そして西太后のあの背信っぷり、手首が取れそうなほどの手のひら返しを見せられて、人々の不満や怒りの対象は西洋諸国やキリスト教から、「敵は紫禁城にあり!」と清朝政府へと変わった。
この事件以降、自分たちを支援する人が増えたと孫文は言う。
もう「罪己詔」ぐらいで変えられる時勢ではなく、辛亥革命によって1912年に清朝は滅亡する。
1900年6月21日、西太后が無茶な賭けに出た結果がコレだ。
ただ中国では、欧米や日本の帝国主義に反対抗した愛国的運動と理解されているから、義和団事件は高く評価されている。ただし西太后は除く。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。