【陛下、賊です】榎本武揚と黒田清隆、美談だけじゃない友情

 

ほんじつ6月27日は、1869年に戊辰戦争の最終局面である箱館戦争が終わった日。
天皇の支持を得て、「これで勝つる!」と勢いを増した薩摩・長州を主力とする新政府軍に、“朝敵”となった江戸幕府は戦いをあきらめて江戸城の明け渡しを決めた。
それでも戦いを止めない幕府勢力は、北海道の函館へ移動して徹底抗戦をつづける。
このときオランダ帰りの榎本武揚(えのもとたけあき)が旧幕府軍のリーダーとなって、蝦夷地を占領して「蝦夷共和国」の総裁となった。
こうして始まった、旧幕府軍と新政府軍とのバトルが箱館戦争(五稜郭の戦い)だ。

 

「蝦夷共和国」の箱館政権の閣僚
座っている2人の向かって右が榎本武揚

 

江戸幕府の残存勢力に過ぎない「蝦夷共和国」に時代を変える力はなかった。
新選組の「鬼の副長」だった土方歳三も亡くなって、勝てる可能性が絶望的になったころ榎本武揚はオランダ留学時代に手に入れた、国際法と外交に関する書『海律全書』をこれからの日本に役立てほしいと新政府軍に渡す。
貴重な本をもらった新政府側は酒と肴を送って、榎本に感謝の意を示す。
この好意に感謝した榎本は軍使を送ってお礼を言い、しばしの休戦を願い出ると、新政府側はそれを受け入れて五稜郭へ総攻撃を開始する日時を伝えた。
この休戦中に箱館政府は降伏を決断。
榎本は敗戦の責任をとると同時に、兵士の命を助けるために自刃しようとするが、それを見つけた大塚霍之丞(かくのじょう)に止められた。
翌日、榎本は新政府軍の指揮をとっていた黒田清隆と会談をおこない、降伏の具体的な手順を決める。
それに従って1869年6月27日、榎本ら幹部が出頭して箱館戦争が終わると、今度は「榎本問題」が始まった。

 

約1300人の死者を出す戦争を始めた榎本武揚に、木戸孝允など長州派は厳罰(おそらく処刑)を求めた一方で、日本のために『海律全書』を渡したことに感動し、榎本の才能を評価していた黒田清隆は助命を主張して対立する。
榎本を絶対に死なせたくなかった黒田は、坊主頭にして助命嘆願をおこなう。
そんな熱意が通って榎本は助けられた。

 

「榎本を殺すのなら、そんな新政府、自分は辞めて坊主になる」と西郷隆盛に言った黒田清隆(左)

 

かつての敵将によって救われた榎本は、黒田のすすめを受けて明治政府に仕えることにする。
その後、黒田は第2代内閣総理大臣になり、榎本は文部大臣や外務大臣などを歴任し、新生日本のためにともに尽力した。
後年、榎本は函館戦争をふり返ってこうつぶやいた。

「今ならあんな幼稚なことはしないが、帰国したばかりで良く判らなかったし、長州人といっても当時はどこの馬の骨だか判らないので抵抗してみた」

対して、祝いの宴会で泥酔した黒田は榎本を指さしながら、明治天皇に向かって、

「陛下、この席に賊がおります!賊がおる。賊がおる」

と、(たぶんゲラゲラ笑いながら)言って、榎本を怒らせてケンカ寸前になったという。
日本を二分した戊辰戦争の最終局面で、1300人の日本人を死亡させた責任者をこう取り上げられて、明治天皇もリアクションに困ったと思われ。
それでも明治32年に、榎本の息子と黒田の娘が結婚して二人は血縁関係になる。
だから箱館戦争で敵同士として戦ったことで生まれた、強敵と書いて「とも」と読むような友情は生涯続いたのだろう。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。