10年ほど前に、20代の韓国人女性と奈良の法隆寺へ行ったときのこと。
境内にある建物を回っていると、飛鳥時代に朝鮮半島から僧を招いて、仏教について学んだという説明があるのを見つけて、「日本に先進的な技術や知識を伝えたのは韓国なんです」と彼女が誇らしそうに言う。
その輝くドヤ顔はいまも記憶に新しい。
日本人は控えめだから、たぶんこんな態度はとらない。
大ざっぱに言えば、そう言ったら相手がどんな気持ちになるかを考えて、話の内容や態度を調節するのが日本人で、心に思ったコトをそのまま言葉にして伝える率直さが韓国人だ。
知人のこんな認識は韓国の歴史教育によって育まれた。
古代において朝鮮半島にあった新羅・百済・高句麗の三国は、国としての力は日本の上にあって、両国関係は上から下への一方通行だったという説明が高校生の歴史教科書にある。
三国時代にわが国の流移民が日本列島に渡って、先進技術と文化を伝え、大和政権を誕生させ、日本古代の飛鳥文化を成立させるのに貢献した。
「韓国の歴史 (明石書店)」
漢字や仏教、儒教といった中国の文化や先進技術が先に朝鮮半島へ伝わって、それから日本にもたらされたことは間違いない。
だからといって、飛鳥文化の成立に貢献したというのはともかく、「大和政権を誕生させ」は別料金が発生するぐらい盛りすぎ。
では、当時の日本人は朝鮮半島をどう見ていたのか?
602年のきょう6月27日は、用明天皇の息子で聖徳太子の弟である来目皇子(くめ の みこ)が病気のために、新羅征討を中止したとされる日だ。
飛鳥時代にヤマト王権が朝鮮半島の南部に、「任那日本府(みまなにほんふ)」という統治機関を設置したという記述が日本書紀にある。
この任那日本府の実態については、諸説あってハッキリしたことは分かっていない。
古代史においては、三国が日本に対して圧倒的に優勢だったという考え方が韓国では定説だから、朝鮮半島に日本が統治する地域があったという説はまったく受け入れられていない。
「韓国<日本」という状態は気持ち的に認めたくない。
この任那日本府が新羅の攻撃を受けたため、600年にヤマト王権が「征討軍」を送って新羅を降伏させた。
そして2度目の遠征が602年に行われる。
征新羅大将軍となった来目皇子(くめ の みこ)が2万5千の軍を率いて出陣し、九州まで進んだところで、病気になって「新羅征討計画」は中止となった。
3度目は603年に、来目皇子の兄・当麻皇子(たいまのみこ)が将軍に任命されて行われたが、途中で妻が亡くなったため、当麻皇子が朝廷に引き返してこの征討計画も終わった。
もちろん韓国側はこの説も全否定するはずだ。
特にヤマト王権の征討軍が新羅軍と戦って撃破し、新羅を降伏させたという部分は韓国の歴史認識ではあり得ないことだし、あってはいけないコト。
でも、すると困ったことがある。
朝鮮半島の三国が日本に先進技術と文化を伝えたという話も、任那日本府の存在も「新羅征討」も日本書紀の記述が根拠になっている。
同じ根拠なのに「韓国が日本に教えたのは正しいけど、あとの2つは間違い」という態度はあまりに感情的で都合がよすぎる。
でも、韓国ではそんな歴史認識が一般的だ。
そして日本人は控えめだから、韓国人に面と向かってこんな話をすることはきっとない。
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