【幕末の四大人斬り】京都御所でおきたテロ・朔平門外の変

 

では問題です。
言論の自由や民主主義の精神ってのを、簡単な言葉で説明しなさい。

そんなコトを聞かれて困ったらとりあえず、フランスの世界的な哲学者ヴォルテールのこんな言葉を言っておこう。

「私はあなたの意見に反対だ。だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」

こんなイケメンなセリフの反対側にあるのが、相手が意見を述べる権利を認めず、自分にとって都合の悪い声を封殺する言論弾圧だ。
そして最悪なのは表現の自由どころか、生存権さえ否定してその人間を殺害すること。相手を永遠に黙らせる政治テロ。
そんなことが幕末の日本ではよくあった。

 

ヴォルテール

 

きのう7月5日は1863年に、「朔平門外の変」が起きた血塗られた日。
朔平門(さくへいもん)というのは、京都御所の北側にある門のことで、公家の姉小路 公知(あねがこうじ きんとも)がこの近くで賊の襲撃を受けて命を落とす。
日米修好通商条約に強く反対していた姉小路は外国が大大大嫌い。
西洋の国なんて武力で追い返せ、戦争になってもかまわん!という過激な攘夷思想の持主だった。
欧米列強との争いを避けて日米修好通商条約を結んだ幕府や、幕府の考え方に近い薩摩藩などは、こんなバリバリの強硬派で、しかも天皇の近くにいて影響力のある公家をジャマに思っていたはず。
姉小路 公知が殺害されたのは、まさにそんなタイミングだった。

 

このとき犯人とみられたのが、田中新兵衛(しんべえ)。
当時、京都で要人を斬りまくる暗殺活動を行っていて、「人斬り」と怖れられていた4人の攘夷志士の1人だ。
「幕末の四大人斬り」には田中のほか、肥後藩出身で佐久間象山を暗殺した河上 彦斎(かわかみ げんさい)、土佐藩出身の岡田 以蔵(いぞう)、それに薩摩藩出身で西郷隆盛のために最期まで尽くした中村 半次郎がいる。
半次郎は新選組局長だった近藤勇に、「薩摩の中村半次郎だけは相手にするな」と言わせるほどの剣の達人で、幕末最強かそれクラスの侍だ。

岡田以蔵は姉小路公知の護衛をしていたこともあったから、「朔平門外の変」のときにいたら、田中新兵衛との「幕末の人斬り四天王」どうしの頂上決戦になっていかも。

 

明治維新後、「桐野 利秋(きりの としあき)」と改名した中村 半次郎

 

姉小路が殺害された現場にあった刀から、このテロ事件は薩摩藩士の田中新兵衛のしわざとされ、彼は奉行所に監禁される。その後、新兵衛は何も言わずに自害したから、正確な犯人は分かっていない。

でも、そのときの情勢や物的証拠から、田中新兵衛が公知を襲撃したあと、御所で公家を殺害したことで薩摩藩に迷惑がかからないよう自刃したとみるのが自然。
そもそも田中新兵衛は当時、かなり名の知れたサムライ・テロリストだ。
疑いをかけられた薩摩では藩士の高崎正風が、田中は精神不安でノイローゼ気味であったと説明して藩の関わりを否定した。
これはいわゆる”損切り”だろう。

「私はあなたの意見に反対だ。だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という精神の反対にあるのがテロ。
でも、このころのサムライに民主主義の理念なんて通じない。
「幕末の四大人斬り」が相手だったら、「~だが」のあたりで首から上が無くなってる。

 

さて、「朔平門外の変」も重要な事件なんだが、日本史的には、これがきっかけとなって同じ年に起きた「八月十八日の政変」のほうがもっとずっと重要だ。
ということで、To be continued.

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。