ついこのまえ、12月14日は「討ち入りの日」だったでござる。
1701年のこの日、主君のカタキを討つために家臣の大石内蔵助ら47人が吉良邸へ侵入し、吉良義央を討ち取り、みごと浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の無念を晴らした。
くわしいことはこの記事を。
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この赤穂事件をモデルにした『忠臣蔵』は昔から日本人の心を揺さぶり続けて、いまでも人気がある。と言いたいところなんだが、最近ではこのドラマをすっかり見なくなってしまった。
時代や日本人の価値観が変わったものかも。
さて日本ではよく「三大ナンチャラ」と言うように、仇(あだ)討ちにもそれがあって、
・曾我兄弟の仇討ち
・鍵屋の辻の決闘(伊賀越の仇討ち)
・赤穂事件(『忠臣蔵』)
が「三大仇討ち」として有名だ。
*「敵(かたき)討ち」も「仇(あだ)討ち」も意味はどっちも同じ。
そしてきょう12月17日は日本の歴史上、最後の仇討ちがあった日。
幕末の1868年の5月、いまの福岡県にあった秋月藩の家老・臼井 亘理(うすい わたり)の家に、干城隊(かんじょうたい)という武士集団が押し入り、亘理とその妻を斬り殺す。
臼井 亘理は”鎖国”に反対していた開国派で、西洋人を嫌う攘夷派の武士に敵視されていたことがこの惨劇につながった。
同じ家で寝ていて、異常な物音を聞き、飛び起きて駆けつけた11歳の長男・六郎の見た光景がその後の人生を決定づける。
そこには身体が肩から胸にかけて大きく切り裂かれ、首のない父の身体と、ズダズタに切り裂かれ、髪の毛に絡んだ血肉が襖や廊下に飛び散った母の姿があった。
臼井 六郎(1858年 – 1917年)
このヒトゴロシに対して藩庁は、「国家のため」におこなった「忠誠の士」と干城隊を支持して無罪にする一方、殺害された亘理(わたり)には、
「自分の才力を自慢し、国を思う気持ちが薄いその態度が今回の災いを招いたものであり、本来なら家名断絶に等しいが、家筋に免じて減禄に処す」
と滅茶苦茶なことを言い渡す。
悪と正義が逆転したのは、当時の秋月藩では尊王攘夷の嵐が吹き荒れていたことと、これを裁定したのが干城隊サイドの人間だったから。
こんな理不尽な仕打ちに、まだ幼かった六郎はこう心に刻んだ。
「骨髄二徹シ切歯憤怒二堪ヘズ必ズ復讐スベキ」
でも復讐すべき相手の名前が分からず、六郎は空しい日々を過ごすこととなる。
そんなある日、通っていた藩校(稽古館)で干城隊士(一瀬直久)の弟が、
「アニキが家に伝わる名刀で、国賊の臼井亘理を斬り殺したんだぜ~」(想像)
と自慢話しているのを聞く。
ついに敵(かたき)が分かった!
でも一瀬は強く、六郎がかなう相手ではなかったし、まわりの大人に反対されて仇討ちをすることはできなかった。
六郎はその意志だけを心に秘め、あとは機会を待つことにする。
でも一瀬は東京へ行ってしまうし、江戸時代には合法だった「敵討」が1873年(明治6年)に、明治政府の「復讐ヲ嚴禁ス(敵討禁止令)」によって禁止された。
そんなことに関係なく、一瀬を追って六郎も東京へ向かう。
そして裁判所に勤務していた一瀬を見つけた六郎は絶好の機会をとらえて、「父の仇、思い知れ」と短刀で一瀬を刺し殺す。
13年目にして両親の無念を晴らした、臼井六郎による日本の歴史上、最後の仇討ちがあったのが1880年の12月17日。
六郎はそのあと人力車で京橋警察署へ行って自首した。
江戸時代だったら「武士の誉れ」と称賛されただろうけど、明治時代でこれは殺人罪になる。
その後の六郎については上のリンク先を見てもらうとして、最後は勝海舟の言葉で締めくくろう。
事件を知った勝海舟は山岡鉄舟へ送った手紙でこう書いた。
「六郎はかつて父母共に深夜同枕に惨殺されたことを歎き、臥薪嘗胆ほとんど13年間艱楚を嘗めつくし、終に法を犯し、一命をなげうってその復讐を遂げしは、天の誠の道理なり、実に哀隣すべきことである。その点においていやしくも血気の男児は、その同情を寄せざるを得ない。」
50歳のころの六郎
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