きょう8月12日は、1182年に源頼家(よりいえ)が生まれた日。
その10年後、父親である源頼朝が征夷大将軍になり、19世紀に江戸幕府が滅亡するまで、日本は武家政権によって統治されることとなる。
さらにその10年後の1202年に、頼家が鎌倉幕府の第二代将軍となった。しかし、最期は悲惨で、彼は21歳で暗殺され、鎌倉幕府は北条氏のものとなる。
将軍は政治的実権を握って日本の政治を動かしたが、日本の頂点にいたのは天皇で、将軍はその家来でしかない。
将軍は権威では天皇にかなわないが、軍のトップにいて、実力(軍事力)では天皇や朝廷を圧倒していた。政治の権限がなかったことも理由にあるのだろうが、天皇は将軍のように暗殺対象にされることもなく、常にセーフティーゾーンにいることができた。
日本では明治時代になるまで、天皇と将軍による二重統治が行なわれていた。
日本の常識は世界の非常識というけれど、こんな不思議な政治体制があったのは世界で日本だけだったから、他国は理解に苦しみ、日本もその無理解に苦しんだ。
たとえば、室町時代に将軍・足利義満が中国(明)と貿易をしたいと考え、自身を征夷大将軍と名乗ったところ、中国は国の代表者であるとは認めず、義満を相手にしなかった。
日本の天皇と将軍の奇妙な関係は中国には存在しなかったから、古代から交流のある隣国でさえ、よく分からなかったと思われる。
そこで足利義満は外交上、「日本国王」を自称することで、明から外交相手として認められ、日明貿易をはじめることができた。
当時の日本には天皇と国王がいたことになるから、現代の日本人にはややこしいかもしれない。
ケンペルの描いた方広寺の大仏(京の大仏)
戦国時代にやってきたヨーロッパ人は、中国人以上に、天皇と将軍の関係が理解できなかっただろう。
17世紀に来日し、ヨーロッパに初めて日本を本格的に紹介したドイツ人のケンペルは、「二人の主権者が存在しており、天皇は宗教上の皇帝であり、将軍は俗界(政治上)の皇帝である」と紹介した。
日本に開国を求めたアメリカ人のペリーも同じ認識をしているから、欧米世界ではこれが一般的な理解だったようだ。
1854年に江戸幕府がペリーと日米和親条約を結び、日本は長い「鎖国」の眠りから覚め、西洋諸国との付き合いをはじめた。
すると、将軍とは軍のトップであり、国全体を代表していないから、幕府としては対外的な呼び方に頭を悩ませる。
結果、江戸幕府は欧米諸国と条約を締結する際、将軍を「大君」と表現することにし、その慣習が明治元年、天皇が外交権を握るまでつづく。
しかし、西洋人には「大君」の正確な意味が分からない。
それで英語では「august sovereign(尊厳なる君主)や「Emperor(皇帝)」などと訳され、最終的には音訳して「Tycoon(タイクーン)」で落ち着いた。
その概念が存在しない場合、日本語をそのまま英語にして、意味を理解していくほうがいい。
世界から見れば、日本の将軍は本当にスペシャルな存在だった。
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天皇と幕府の二重権力体制は、立憲君主制の原型のように感じます。
そしてこの二重体制が崩れることなく長く存続したので、日本の発展が持続的に進んだと思います。世界の歴史の中で非常に特異な体制であり、現代政治にも霊感を与えた体制だったと思います。
朝鮮や中国は王や皇帝が力を持ちすぎて、19世紀末に改革ができませんでした。日本は江戸幕府を自分たちの手で滅ぼしたことでそれが可能になりました。
天皇は政治権力を持っていたら、朝鮮や中国のようになっていたかもしれません。