【真逆の運命】悲惨なロマノフ王家とラッキー徳川家

 

2月21日は、1613年にロシアでミハイル・ロマノフがツァーリ(皇帝)になって、ロマノフ朝がはじまった日。
その10年前の1603年、日本では徳川家康が将軍になって江戸幕府を開いている。
ちなみに、同じ1603年にはイングランドでエリザベス1世が亡くなり、ジェームズ1世が即位してステュアート朝がはじまった。

江戸幕府とロマノフ王朝は同時期にスタートし、前者は 1867年の大政奉還で終了し、後者は 1917年に滅亡した。
ロマノフ朝のほうがちょっと長く続いたが、終わり方は対照的。
超絶ラッキーだった徳川家とは違って、ロマノフ家は世界の歴史でもまれに見るほど悲惨で陰鬱な最後を迎えた。

 

1913年に、ロマノフ王朝の300周年を記念する大イベントが開かれた。
盛大に祝われた4年後、ロマノフ朝は滅亡する。

 

1917年にロシア革命(二月革命)がおこり、ロマノフ朝が打倒されると、皇帝一家は監禁状態に置かれた。
「誕生300年祭」を祝った皇帝一家は囚人一家となる。
窓は新聞紙で覆われ、外さえ見えないような建物に入れられ、洗面所を使うときなど、部屋を出る時はいつもベルを鳴らすこと要求された。
しかし、そんなロマノフ家のみじめな生活も 1918年7月17日に終わった。

この日、安全な場所に移動するとだまされ、家族は地下室へ集まった。
すると、秘密警察(チェカ)の銃殺隊が入ってきて、一斉射撃をはじめる。
部屋に煙が充満し、銃撃を続けることが困難になったため、一度ストップしてドアを開け、煙を外へ出す。
視界がはっきりしてくると、虐殺の第2ラウンドが開始され、銃殺隊はまだ生きている人を見つけると銃で撃ったり、銃剣で刺したりした。

このとき、2人の娘は銃で撃たれても銃剣で刺されても、なかなか死ななかった。そのため、処刑部隊は銃で2人を殴り殺す。
その理由はすぐに判明した。
子どもたちの衣服にはダイヤモンドが縫い込まれていて、銃弾や剣によるダメージが軽減されたのだ。

Later it was discovered that the bullets and bayonet stabs had been partially blocked by diamonds sewn into the children’s clothing.

House of Romanov 

皇帝一家

 

最後の皇帝ニコライ2世には、妻アレクサンドラと5人の子どもがいた。
長女オルガ(22)、次女タチアナ(21)、3女マリア(19)、4女アナスタシア(17)、そして皇太子のアレクセイ(14)。
以上の7人は惨殺された後、遺体には硫酸をかけられ、外見をメチャクチャにされた。

ニコライ2世とアレクサンドラが子どもたちの服に宝石を縫い込ませていたのは、子どもたちが解放された後の生活を考えた行動だったはず。
結果的に、それが死の苦痛を長引かせてしまったのだけど。
革命政権にこんな親心は通じなかった。

歴史家の中には、処刑命令を下したのは、後にソビエト連邦の初代指導者となったレーニンだと考える人もいる。

 

ロマノフ一家が殺された地下室

 

狩りをする姿で撮影された徳川慶喜

 

一方、江戸幕府を終わらせた徳川慶喜は、一時は死罪という話も出たが、何とかそれは回避することができた。
将軍を引退した後、彼は趣味の世界に没頭し、第二の人生を本当にエンジョイしていた。
具体例にはこんな感じ。

・狩りが好きで、鳥や獣などを追いかけていた。
畑の上を走り回り、農家から苦情が出ると、慶喜は「では全部買い取ってやったらよかろう」と言ったという。
・人力車に乗って海へ行き、投網(とあみ)をして魚を捕まえた。
・当時の日本ではかなりめずらしい自転車を手に入れると、慶喜は銀座などへサイクリングを楽しんだ。
サイクリング中に美人に見とれてしまって、電柱にぶつかったというマンガみたいな話もある。
・銀座はお気に入りのスポットで、よくショッピングに出かけた。
・写真を撮ることが好きになると、プロの写真家からテクを学んだ。
東京を歩いて、興味をひかれたところを撮影し、写真を榎本武揚などに贈ることもあった。
・油絵を描き、慶喜作とみられる油彩画が 10点ほど確認されている。
・アイスクリーム製造機をもらうと、自宅でアイスクリームを作って食べた。また、コーヒーも飲んだ。
・顕微鏡で、いろんなものを観察することが好き。
あるとき顕微鏡できな粉を見たら、たくさんの虫がいてショックを受けたため、慶喜はそれ以降、きな粉を食べなくなったという。
・レコード鑑賞やビリヤードを楽しんだ。
・大正元年(1912年)には自動車をゲットし、東京をドライブする。
・皇室との関係も良好で、明治天皇と会って言葉を交わし、皇太子(後の大正天皇)とは「ケイキさん」「殿下」で呼び合う関係になった。

慶喜は子宝にめぐまれ、10男11女をもうけた。
一部の子どもは早くに亡くなったが、息子は貴族院議員や大企業の重役になったり、娘は名門家の当主や皇族と結婚したりして、かなり恵まれた生活を送っていた。

徳川家とロマノフ家との落差よ。

 

慶喜は弓術が大好きで、77歳まで弓を引き続けていたという。

 

写真家ヨシノブが撮った猫

 

 

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1 個のコメント

  • 歴代中華王朝やフランス王朝もそうですが、法が庶民の統治手段に限定的で王や皇帝が絶対権力を持つ国ほど末期も悲惨ですね。
    逆らう相手を力ずくで捩じ伏せてきた反動でしょう。
    逆に今でも王室や皇室が残っている国は、最高権力者でも法による制約があった国々です。
    前者と後者の違いは市民階級(裕福な庶民)との関わり方ですかね。
    後者の場合は法や契約を通じ協力体制が取れるので、旧体制と完全に対立までは行きません。

    慶喜公の場合は例え最悪本人が責任を取らされてしぬことが有っても、新体制下で妻子の生活は保障されたから権力を手放せたのでしょう。

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