11月9日というと鎌倉幕府が成立した要因のひとつ、「富士山の戦い」があった日だ。
さらに1867年のこの日、徳川慶喜が二条城で大政奉還を宣言し、政権を朝廷へ返上したことで約260年続いた徳川幕府は事実上、消滅した。
これはつまり、鎌倉時代から続いてきた武家政権が終わったことを意味する。
そして大政奉還の2か月ほど後、明治天皇よって王政復古の大号令が出されると、江戸幕府は廃止されて新政府が成立する。
でも、「あきらめたらそこで試合終了ですよ。」とささやいた人がいたらしい。
徳川慶喜をはじめ旧幕府勢力は新政府軍との戦いを決意し、京都で戊辰戦争の始まりとなる「鳥羽・伏見の戦い」が始まった。
でもここで、日本の戦いにおける“究極武器”である錦の御旗(にしきのみはた)が登場。
この旗を掲げたというのは天皇(朝廷)の支持を得た証拠で、その勢力は官軍になったことを意味する。
鎌倉幕府から政権を取り戻すために、後鳥羽上皇が13世紀に承久の乱を起こした際、配下の者にあたえた旗が日本で初めての錦旗とされる。
*錦旗(きんき)=錦の御旗。
錦旗
もちろん御旗の攻撃力はゼロ。
でもこれによって、「自分は天皇の敵、賊軍になってしまった!」と相手に思わせることができるから、日本人にあたえる精神的打撃ははかり知れない。
実際に鳥羽・伏見の戦いでは、新政府軍が御旗を掲げたの知って、朝敵になることを怖れて撤退した旧幕府軍の兵もいた。
淀藩や津藩などはこの旗の登場に驚き、旧幕府を見限って離れていく。
「もう形勢逆転は無理っぽい」と慶喜も大坂城をコッソリ抜け出して、船で江戸へ逃走した。
兵力でみれば旧幕府軍のほうが上回っていたのに、鳥羽・伏見の戦いは新政府軍の完勝となる。
敵軍の戦意を喪失させ、戦わずして勝つる!
そんな錦旗は日本の戦闘におけるチート級アイテムで、敵からしてみたら“禁忌”のレベル。
慶喜も朝廷に刃向かう意思はなかったし、“朝敵”とされたことには大きな負担を感じた。
後醍醐天皇
とはいえ錦の御旗(にしきのみはた)は、いつでも形勢を逆転できるジョーカーではない。
1221年の承久の乱では後鳥羽上皇の軍は幕府軍に負けて、上皇は島流しにされた。
はじめ後鳥羽上皇は、「朝敵となった以上、もう鎌倉に味方する人間はほとんどいないはず。クックック」と楽観的だった。
でもこの時は、北条政子とかいう言葉の天才が「頼朝公のご恩は山より高く、海より深い~」という名演説をおこなって、鎌倉武士の心を動かし、動揺をしずめた。
ただ政子は、上皇がまわりの人間にそそのかされて「幕府を討て!」と命じたのだと言い、上皇の周囲にいる悪人を討つべしと御家人に伝えた。
幕府軍の総大将・北条泰時やその父親で執権だった北条義時も、天皇を敵として戦うつもりは1ミリもなかった。
戦いに出かける直前、泰時は義時からこう言われたという。
君主を悪へ誤って導き申し上げてはならない。誤った道へと導き奉った側近の臣どもの悪い行為を罰するだけのことだ、早速出発せよ
「明恵上人伝記 (講談社学術文庫)」
本当の「朝敵」は側近の者どもで、天皇や上皇が悪い道へ進まないように自分たちは戦うのだと泰時は言う。
だからたとえ錦旗が出てきても、自分たちが朝敵にならないような論理を用意していたのだ。
承久の乱からおよそ100年後、1331年に鎌倉幕府を倒すために挙兵した後醍醐天皇も、笠置山で錦旗を掲げたという。でもすぐに幕府軍に捕まって、承久の乱と同じように島流しにされたの巻。
(元弘の乱)
このときは先代の天皇だった花園院(花園天皇)が激怒して、後鳥羽上皇を「王家の恥」、「一朝の恥辱」とこき下ろした。
後醍醐天皇の行動は朝廷や天皇側の総意ではなかった。
天皇に対する日本人の見方や敬意は時代によって違うから、その権威の象徴である「錦の御旗」はいつも絶対的な効果があるわけではない。
が、一定の条件がそろえば鳥羽・伏見の戦いのように、敵の戦意を喪失させて、味方を勝利に導く究極的なパワーを発揮する。
こんなアイテムは日本の歴史でこの旗しか知らない。
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