【金閣寺 vs 銀閣寺】室町将軍の弱体化/外国人旅行者の感想

 

旅行サイト「トリップアドバイザー」の口コミを見ると、銀閣寺を訪れたある外国人がこんな感想を寄せている。

「The temple itself is a little underwhelming, especially if you’re coming from visiting Kinkakuji.」

寺そのものには、チョット物足りなさを感じるかもしれません。特に金閣寺を訪れた後では。

日本でも海外でもこんな感じに、金・銀がセットで比較されることがよくあって、外国人の反応を見ると銀閣寺にガッカリする人がけっこういる。
ということで今回は銀閣寺の時代背景を中心に、21世紀の外国人から「物足りない…」なんて言われるような違いがうまれたワケについて書いていこう。
金閣と銀閣、どうして差がついたのか…慢心、環境の違い。
いや、それは“将軍力”の違いだ。

 

祖父の足利尊氏を超える高い地位についた足利義満は、武士と公家の頂点に立って(天皇は別次元)、金閣寺というゴージャスな建物をつくった。
そんな義満の死後、神社で行われたくじ引きによって、息子の足利義教(よしのり)が室町幕府の第6代将軍になると、「万人恐怖」と呼ばれたオソロシイ時代になり、最期は1441年に守護大名の赤松満祐(みつすけ)に暗殺され“犬死”する。(嘉吉の乱)
将軍の権威もガタ落ちだ。

足利義教:くじで将軍になり、治世は万人恐怖で、最期は犬死

義教の息子、義満の孫にあたる足利義政が1449年に8代将軍になったころ、室町幕府の影響力はすでに弱まっていて、各地の大名をコントロールすることができなくなり、日本中が学級崩壊したような混乱状態になる。
「応仁の乱」が起きたのが義政の時代で、その大乱を描いた軍記物語『応仁記』には、こんなこの世の終わりみたいな文章がある。

「天下は破れば破れよ。世間は滅びば滅びよ。人はともあれ我が身さえ富貴ならば」

なんという自暴自棄と虚無感。
この乱によって、京都も地方も修羅道になったというから(都鄙遠境共ニ修羅道トゾ成ニケル)、日本中の人たちの心がすさみ荒廃したと思われ。
このあとやってくる戦国時代のフラグとしては十分だ。

1477年にやっと応仁の乱が終わったころには、室町幕府や将軍の権威なんてものものは地に落ちた。
この戦いの後、義政はじいちゃんの義満が建てた金閣寺を参考に、1482年に東山山荘をつくり始め、いまでもその地には銀閣寺と東求堂(とうぐどう)が残っている。

 

 

これまでアメリカ人、タイ人、台湾人、インドネシア人、ドイツ人などの外国人と京都旅行をして、金と銀のどっちがいいか尋ねると、どっちもいいけど、どちらかに友だちを連れて行くなら金閣寺を選ぶ人が多かった。
地味で落ち着いている銀閣寺に比べて、見ると思わず「おおっ!」と歓声がもれるような金閣寺のほうがインスタ映えするし、あの派手な外見を好きな外国人は多いと思う。
足利義満は室町時代の黄金期にカネも絶大な権力を持っていた将軍で、すっかり落ちぶれたころの孫の義政とは対照的。
室町幕府の絶頂期に建てられた金閣寺と違って、応仁の乱の後につくられた銀閣寺には、当時の世の中にただよっていた無常観があるように思う。

銀閣寺が外国人に「a little underwhelming」と評されたのは、建物に銀箔が貼られていないからだ。
では、なんで銀閣寺に銀はないのか?

2007年に行われた調査で、銀閣寺には創建当時から、銀箔がなかったことが明らかになっているから、「銀が剥がれ落ちてしまった」ということはない。
ハッキリした理由は不明ながら、よく言われるのは「義政は銀箔を貼ろうとしたけど、お金がなかったからできなかった」という説。
ほかにも「銀閣寺が完成する前に義政が亡くなったから」とか諸説ある。
「天下は破れば破れよ。世間は滅びば滅びよ」と言われた応仁の乱が終わって、5年後に銀閣寺の建設が始まったから十分な予算があったとは思えない。
だから理由はシンプルに金欠だろう。

ただ義政の時代、この建物は「慈照寺」(じしょうじ)という名称で、西の「ディズニー」に対して東の「ひらパー」があるように、金閣に対して銀閣と呼ばれるようになったのは江戸時代になってからのこと。
だから創建者の義政が「銀閣」なんて名前を付けたわけじゃない。

 

室町時代に絶対的な権力者となったのが足利義満。
その息子の足利義教は守護大名に討たれると、室町将軍の権威は失墜し、幕府は弱体化した。
義教の息子の義政の時代になると、京都も地方も「修羅道」となる応仁の乱が起こって日本が大混乱となる。
金閣寺は室町幕府の黄金期にふさわしい荘厳な建物で、銀閣寺は予算のなくなった幕府にふさわしい地味な建物になっている。

現代の外国人旅行者の感想を見ると、金閣寺は建物が印象的で、銀閣寺は建物はイマイチでもその庭に感動する人が多い。

〇金閣寺

・The pavilion itself is a three-story structure, the top two floors of which are entirely covered in gold leaf and shimmers in front of a pond.

パビリオンは3層で、上の2層は全体が金箔で覆われていて、池を前にしてキラキラと輝いている。

・the reflection on the water was spectacular. This was a highlight for our trip and a must to see when in Kyoto.

水面に映る姿はまさに壮観。これは私たちの旅のハイライトであり、京都に来たら必ず見るべきものだ。

・ Kinkaku-ji is decorated with gold leaf. Words become superfluous. I have never seen anything so beautiful in my life.

金閣寺は金箔で飾られている。言葉はいらない。こんなに美しいものを見たことがない。

 

〇銀閣寺

・Whilst the temple may not be as stunning as the Golden Temple, the grounds are sublime with Zen landscaping and oozing serenity.

金閣寺ほど素晴らしく(美しく)はないが、境内には禅宗のみごとな造園があり、静寂に満ちている。

・I still vividly recall the sloapy terrain filled beautiful trees, bushes and other greens, making it a true masterpiece of gardening design.

美しい木々や茂み、緑にあふれた地形は、まさにガーデニングデザインの最高傑作であったことを今でも鮮明に覚えています。

銀閣寺には物足りなさを感じるという、記事のはじめに出てきた感想は後にこうつづく。

・However, take your time to stroll through the extensive gardens and you’ll be rewarded with magnificent views and beautiful scenery.

しかしながら、広大な庭園を散策すれば、壮大な景色と美しい風景に満足するだろう。

 

銀箔を貼らなかったから、結果的には金閣寺と魅力がかぶることはなく、銀閣寺は「わび・さび」という独自の美しさを獲得したからよかったと思う。

 

 

 

日本 「目次」

火事とケンカは江戸の華 「いろは四八組」と「め組の喧嘩」

【日本人と火事】明治のアメリカ人が見た消火活動とその後

【日本の消防団】現代は“残念”でも、明治の米国人には“英雄”

白木屋大火で、日本の女性が「パンツ」を履くようになった説

アメリカ人と日本人の比較:感染拡大もマスクをしない理由

【チップの文化】日本人の考え方が理解できないアメリカ人

訪日外国人は「お通し」をどう思う?ぼったくりか日本の文化か

 

2 件のコメント

  • > 2007年に行われた調査で、銀閣寺には創建当時から、銀箔がなかったことが明らかになっているから、「銀が剥がれ落ちてしまった」ということはない。(改行)ハッキリした理由は不明ながら、よく言われるのは「義政は銀箔を貼ろうとしたけど、お金がなかったからできなかった」という説。
    (中略)
    > 「天下は破れば破れよ。世間は滅びば滅びよ」と言われた応仁の乱が終わって、5年後に銀閣寺の建設が始まったから十分な予算があったとは思えない。(改行)だから理由はシンプルに金欠だろう。

    いやいや、それは違うと思いますよ。
    第八代将軍を引退して慈照寺観音殿(銀閣)を建造した足利義政が、庶民から高税を徴収して巨額の予算をつぎ込んでまで追求したのは、金箔・銀箔を全面にかぶせたピカピカのゴージャスな美学ではなく、究極の「シックな装い」とも言える「茶室」「床の間」「畳の部屋」「日本庭園」「自然の景観を模した箱庭」だったのですから。
    シンプルですが、当時も現代も、決して安価なものではありません。創作者の意図を忠実に表現し、それを維持するためには莫大なコストが掛かる類の美術品なのです。外国人が銀閣の良さを理解するまでには、相当に時間がかかります。
    現代の日本美術や日本家屋の原型は、この政治家としては「ダメダメ将軍」であった足利義政が確立したと言ってもよいと思います。後の時代、義政の流れを嗣いで同等レベルまで昇華できたのは、おそらく千利休くらいでしょう。そう言えば、千利休もメインテーマとしては「侘び寂び文化」の提唱者ではあったが、生前時には非常な財力を駆使した人でしたね。その際のパトロンはもちろん豊臣秀吉です。

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。