1449年のきょう5月21日、足利義政が室町幕府の第8代将軍に就任した。
が、ここで取り上げたいのは義政ではなく、父ちゃんの足利 義教(よしのり)で彼はかなりキャラが立っている。
まず将軍になった経緯がかなり変わっていて、石清水八幡宮で行われたくじ引きによって、義教が第6代室町将軍に選ばれた。
そんなことから、義教には「籤(くじ)引き将軍」なんて呼び名もある。
当時は室町幕府の権威や威光が低下していて、それを残念に思ったくじ引き将軍はその復興をはかる。
それで日明貿易を行なってカネを稼ぐ、自分に対して反抗的だった鎌倉公方の足利 持氏(もちうじ)を討つ(永享の乱)、九州を支配下に置く、地方の有力大名を倒すといったことをやってのけた。
また、比叡山延暦寺が自分を呪っている(呪詛)という話を聞くと、すぐに軍を派遣して延暦寺を屈服させる。
こんなことで、義政は将軍の権威や強大さを天下に知らしめた。
足利 義教
強い野心や行動力があって、世の中を自分の思い通りに変えていった義教は超自己中で残忍な面もあった。
さっきの鎌倉公方の足利 持氏(もちうじ)は降伏して出家し、上杉憲実らも持氏の命を助けるよう進言しても義教は認めず、持氏を攻めて息子の義久と一緒に自害させた。
他にも、自分に従わなかった一色義貫や土岐持頼といった大名には刺客を送り込んで殺害する。
「呪詛」の件では、延暦寺を屈服させて和ぼくを結んだのに、義教は自分と対立した僧を心の中ではまったく許してなく、その4人の僧をだまして京都へ招いて首をはねた。
これに激怒した延暦寺では、何人もの僧侶が抗議の焼身自殺をする。
延暦寺が燃える様子は京都からも見えたから、庶民が「あれは実は義教さまが~」といったウワサ話をすると、それを嫌った義教は比叡山の話をする者は斬首するとお触れを出す。
これ以外にも、こんな悪い話がいまに伝わっている。
・儀式の最中に笑顔を見せた大名がいると、「オレのことを笑いやがった!」と激怒してその領土を没収した。
・「庭の梅の枝が折れた」「料理がまずい」といった理由で庭師や料理人を厳しく罰する。
・そんな義教を諭そうとした仏教僧には熱した鍋を頭にかぶせて、二度と口がきけないように舌を切った。
気性が激しく残酷で、やりたい放題の義教について皇族の伏見宮貞成親王は、「万人恐怖、言フ莫(なか)レ、言フ莫レ」と日記に書く。
「万人恐怖」というパワーワードは義教の治世をよく象徴している。
そんな義教も1441年に、自分の領地を奪われるのではないかと思った播磨の守護大名・赤松満祐(みつすけ)に暗殺された。(嘉吉の乱)
義教の死を聞いて先ほどの貞成親王は、「自業自得ノ果テ、無力ノ事カ。将軍此ノ如キ犬死ニハ古来ソノ例ヲ聞カザル事ナリ」と評したから、義教はよほど怖れ嫌われていたらしい。
室町将軍が強大な力を持っていたのはこの足利義教のころまでで、このあと幕府は弱体化していく。
クジ引きはテキトーな手段ではなくて、神の意思によって決められる正当な方法だったのに、結果はまさの万人恐怖&犬死。
結果からいうと、これ以上ないほどのハズレだった。
【日本の消防団】現代は“残念”でも、明治の米国人には“英雄”
くじ引き将軍「足利義教」、現代だったら「ガチャ将軍」とでも言われるところでしょうか。でも現代だって、例えば裁判員候補者の選出なんか最終的には「くじ引き」で行われます。ちなみに欧米では、くじ引きよりも、「神託のお告げ」による方が多いみたいですね。アメリカの裁判で陪審員の適否を判事や弁護士が「宣言する」ようなものかな?
この第六代足利義教の生涯を見ると、後の織田信長にそっくりだったことが分かります。多くの人々から恐れられ、「第六天魔王」の称号をも自称し、比叡山を攻撃して壊滅状態に追い込み(しかも義教は元は比叡山の最高位僧侶「天台座主」でもあった)、その最期は守護大名の赤松満祐に不意打ちで殺害されたことなど。
おそらく、戦国末期の織田信長は、この義教の事跡について何らかの方法で情報を得て、天下統一へ向けての自分の行動の指針としたのでしょうね。戦国の世を収拾するにはこのやり方しかないと。
でも、死の場面まで倣う必要はなかったと思うのですが・・・。やはり油断したのかな?
将軍と裁判員候補者はさすがに立場や意味が違いますし、足利義教のくじも「神のお告げ」でした。
裁判員では役不足であるならば、自民党の総裁選はどうですか?
> 決選投票は国会議員票383票と都道府県各1票の計430票。都道府県の各1票は、それぞれ党員・党友票が多い方の候補者が獲得する。決選投票で同数となった場合はくじ引きで決着をつける。
(引用元は忘れました。)
くじは、神のお告げを現すものであっても、くじの札が自らしゃべったりすることはありませんよね。
その点が、欧米(例えばギリシャ神話とか)の「神託」との大きな違いであると思います。お告げを下す「神官」あるいは「巫女」が、民に向かって直接言葉を投げかけるといった「個人が責任を負う行動」は日本人にはない考え方です。
強いて言えば中世の「祈祷」が近いかな。ただ、祈祷は後ろ向きの行動が多いですけどね。呪いをかけるとか。
個人の見方はいろいろあります。
義教のくじはローマ法王を決めるコンクラーベのようなものと思います。