日本では2月に火事がいちばん多く起こる。
…なんて思ってる人はいないだろうか?
実は日本では3月が最多の月で、火事は冬よりも春によく発生するのだ。
この時期は空気の乾燥・強風という2大悪条件が重なるから、とくに気をつけないといけない。
江戸時代の最大都市・江戸は人口が超過密状態にあって、木と紙でできた家が密集していたから、「火事と喧嘩は江戸の華」といわれるほど火災が本当によく起きていた。
江戸で起こる火事はすぐに別の建物へ延焼するから、終わってみると、たくさんの死者や焼失家屋を出す大規模なものになりやすい。
犠牲者の数は10万人以上という、一度の空襲としては、人類史上最大の被害をだした東京大空襲を米軍が1945年の3月10日に行ったのは、そんな日本の気象条件や住宅事情を知っていたからだろう。
もちろんこれは過去の話で、いまではアメリカはいい友人だ。
話を江戸時代に戻すと、1717年のきょう3月15日に八代将軍・徳川吉宗が大岡忠相(おおおか ただすけ)を江戸南町奉行に任命した。
中立公正で人情味のある判決をしたことで「名奉行」と高く評価された大岡は、現代では時代劇の『大岡越前(おおおかえちぜん)』のモデルで有名だし、「大岡政談」といわれる彼の裁判内容は日本のサスペンス小説の源流となった。
そんな大岡忠相は、日本の防火対策でも大きな功績を残している。
瓦を使った屋根や土蔵(どぞう)など火に強い建築を奨励したり火除地を設定したりして、江戸の防火体制の強化を図った。
でもって町人で構成される火消組織の「いろは四八組」を設置し、これがいまの消防団の起源になったという。
江戸時代の消防組織にはこのほかに、武士によって組織された武家火消もあった。
い組・ろ組・は組…とそれぞれの火消組に名前を付けたことは、大岡忠相(別の人かも)のナイスアイディアだ。
これによって自分の組への帰属意識やアイデンティティー、プライドが生まれることとなり、ほかの火消組に負けないよう競い合って活動したことで、日本の消防は大きく発展した。
ちなみに「いろは四八組」には「へ組」や「ひ組」がなかった。
これは「屁」と「火」に通じて、火消し人のやる気をなくしたり縁起が悪いからだろう。
そんな日本人の「忌み言葉」を避ける発想から、それぞれ「百組」と「万組」となる。
江戸時代のこうした火消し人による消火方法は、現代のように大量の水をかけるものではなく、火事場周辺の建物をぶっ壊して、延焼を防いで最終的に消火する破壊消防が使われていた。
18世紀にポンプ式放水具の「竜吐水」が登場してからは、これも併用されるようになったが、江戸時代の主流は火消組が建物をぶち壊す破壊消防だ。
もともと火と戦うことが役目で他の組をライバル視していたから、火消しの人たちは気性が荒くてけんかっ早い。
1805年に江戸で起きた、「め組」の火消しと力士による乱闘事件「め組の喧嘩」は有名だ。
相撲の春場所を知人にタダで見せようとした「め組」の人間と力士が言い争い、それぞれが仲間を呼んで全面対決となって、江戸の町中で大乱闘を繰り広げ結果、火消しと力士の計36人が捕まった。
このとき事故に巻き込まれたのが、火の見櫓(ひのみやぐら)の半鐘さん。
火事が起きた時に打ち鳴らすこの半鐘を、「め組」の火消しが仲間を集めるために使ってケンカを拡大させたと問題になり、半鐘が「島流し」にされ、明治時代になってからやっと東京へ戻された。
これは江戸時代の町火消が使っていた纏(まとい)。
火消し人のやる気を引き出したり元気づけたりするために、大岡忠相が「いろは四八組」に持たせたものだ(by 東京消防庁)。
火災現場では纏持ちが風下の屋根にあがって、纏を振って消火活動の目印とし、同時に仲間の士気をアゲていた。
纏持ちのいる家が焼けると、組のシンボルである纏も纏持ちも燃えてしまう。
だから火消しは「纏を燃やすな!」と各自が必死に働いたという。
でも、外国人にはそのへんの事情がよく理解できなかったらしい。
明治初期に来日したアメリカ人のモースは著書『日本その日その日』に、「最高にバカげている」とあきれ顔でこう書いた。
勇気は十分の一で充分だから、もうすこし頭を使えば、遙に大きなことが仕遂げられるであろう。纒持が棟木にとまっている有様に至っては、この上もなく莫迦気ている。
これは当時の日本には、「火事と喧嘩は江戸の華」の荒っぽい気風がまだ残っていたからだろう。
令和の日本でも「いろは四八組」の町火消たちの思いは尊重されていて、いまでは日本文化の一つになっている。
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