「江戸の三大大火」っていえば文化の大火と明和の大火と、それと明暦の大火。
一説には10万を超える死者を出し、江戸城の天守閣まで焼け落ちる江戸時代最大の火事・明暦の大火があったのが1657(明暦2)年のきのう1月18日だ。
くわしいことはこの記事を。
日本の建物は伝統的に、木や紙などでできているからメッチャ燃えやすくて、乾燥や強風などの悪条件が重なると、核兵器なみの犠牲者を出す火事が起こる。
明暦の大火は1月にあったから、川に飛び込んだりその後に凍死した人も多かった。
当時の記録『武江年表』には「大雪降、米価一時に発揚して、賎民の困苦甚だしく、道路に悲泣す」とある。大火災の次は大雪って、神さま残酷すぎマス。
そんな火事の恐ろしさや悲惨さは、日本人なら誰でも知っている。
だから村のオキテ(秩序)を破った者には制裁として、村人との付き合いを絶たれる「村八分」が行われたときでも、火事と葬式の二つだけには手を貸した。
*村八分の語源は、十のうち二つは残すから、または「はじく」「はぶく」からといわれる。
明暦の大火
江戸時代が終わって明治の世になって、日本が近代化のため積極的に外国人を受け入れだしたころ、モースと申すアメリカの学者がやって来た。
で、この島国の人たちと触れた彼はこう思う。
「驚くことには、また残念ながら、わが国で人道の名において道徳的重荷になっている善徳や品性を、日本人は生まれながらにしてもっているらしいことである。」
モースだよ(1838年 – 1925年)
時代が変わっても、人々の意識や習慣、建築素材がすぐに別ものになるわけはなく、それらは基本的には江戸時代のまま。
そんな明治時代の日本で、モースはあるとき火事を目撃する。
彼の記録によると、東京の消防夫の多くは建築師や大工で、彼らは火の手が上がった家に駆けつけると、懸命に火を消した。
アメリカ人以上の熱心さをもって人助けをしても、彼らはそれを当然のことと思い、何の見返りも求めなかった…。
という美談で終わったらよかったのだけど、実際には「見返り」を求めていた。
彼等は、手助をした者の名――消防隊のなり、個人のなり――をはり出し、そこで建物の持主に向って、贈物やあるいは家を建てる機会を請求する。
「日本その日その日 モース エドワード・シルヴェスター」
彼らの懸命な消火活動は、あとで自分たちを使ってもらうための「前貸し」だった。
もちろんすべての日本人がそうだったとは思わない。
でもモースが見た日本人は、「助けたのはオレ!」といったことを書いた札を竹ざおにつけ、焼けた家に残して去っていった。
モースが書いた絵
差し押さえられた家に見える。
命がけの消火活動を、無償のボランティア精神に頼るのは現実的ではない。
だからリターン前提で、こうしたビジネスチャンスに変える発想があってもいい。
人道の名において道徳的重荷になっている善徳や品性を、生まれながらにもっている日本人でもこのぐらいのことはする。
こちらの記事もいかがですか?
外国人(アメリカ人とヨーロッパ人)との会話がで盛り上がる話題
英会話を学ぼう 83 テーマ:日本の治安を外国人はどう思う?
> 命がけの消火活動を、無償のボランティア精神に頼るのは現実的ではない。
> だからリターン前提で、こうしたビジネスチャンスに変える発想があってもいい。
うーん、むしろ私は、その行動を「江戸時代には消火活動も行政サービスの一環として行われていたが、今ではそれが十分ではない。行政は消火活動に要するコストを直視して、十分な行政サービスを実施せよ!」という国民の発想の現れであると考えますけどね。この種のことは、決して、道徳や宗教を理由にしていては継続的な社会システムとして成立しません。
「行政サービスにもコストがかかり、そのコストを負担するために税金が必要」という考え方は、近代資本主義の一端でもあります。日本では世界に先駆けて、既に江戸時代から庶民にまで貨幣経済や為替取引が発達していたという背景事情があって、これほど短期間に「経済システムの近代化」を成し遂げることができたのでしょう。江戸の町民(数百万人)は、原則として「無税」で江戸の町に暮らしていたのですから。