日本の会社で働いているスペイン人とトルコ人と一緒に掛川城へ行って、中をグルグル回っているとこんな見事なしゃちほこを発見。
スペイン人にしゃちほこの役割を想像してもらうと、「この魚、ひげが生えてる!hahaha」と笑いのスイッチが入っただけで、これがお城のてっぺんにある理由についてはさっぱりわからない。
しゃちほこは城の守り神で日本ではむかし(今でも?)、火事になったら口から水を噴き出して火を消すという考え方があった。
ということをスペイン人に説明すると、「なるほど!そういう日本の文化は大好き」とよろこんで写真を撮る。
「トルコとスペインのお城や建築物にも、こんなお守りがあるのだろうか?」と思って2人に質問すると、「聞いたことがない」と首を横にふる。
両国では伝統的に建築素材はレンガや石だから、紙と木でできた建築物とはまったく違う。だから火災は怖かったはずだけど、日本人ほどではなかっただろうと言う。
画像:Gnsin
名古屋城にある金のしゃちほこ
もしものときはこの口から放水される。ようだ。
ではここでクエスチョン。
「火事とケンカは江戸の花」と言われた江戸時代において、三大大火と呼ばれるものはいったい何と何と何か?
*江戸っ子は火消しの働きぶりが見事で、さらに気が早いから派手な喧嘩が多かった。
江戸の三大大火とは明暦の大火・明和の大火・文化の大火の3つ。
どれも大きな被害が出たわけなんだが、この中のラスボスは「明暦の大火」で間違いない。
死者の数は明和の大火(約1万4700人)、文化の大火(約1200人)に対して、明暦の大火では10万人を超えたというからまさにケタ違いだ。
*死者数については諸説あり。
米軍による東京大空襲といった例外を除けばこの火災が日本の歴史上最大のもので、ローマ大火・ロンドン大火に並んで明暦の大火を世界三大大火のひとつに数える場合もある。
その大火災が起きたのが364年前の今日。
旧暦で1657(明暦3)年の1月18日、江戸は猛火に包まれて、身分の上下に関係なく人びとは叫び声を上げながら逃げまどった。
それまでの約80日のあいだ雨が降らなかったから、当日はカラっカラの天気で、さらに強風が吹き荒れていた。
極度に乾燥した空気にビュービュー吹く大風と、恐怖のフラグとしてはもう十分。
最悪の火災がおこる条件はそろっていたから、あとはきっかけを“待つ”だけだった。
この火災の少し前、江戸には梅乃という娘が住んでいて、一目惚れした少年と恋仲になることも、思いを打ち明けることもないままこの世を去ってしまった。
寺の坊さんがお経を読みながら、かわいそうな梅乃の振袖を火の中に投げこむと、とつぜん狂風が吹きおこって裾に火のついた振袖が空に舞い上がる。
そして寺の大屋根に火がうつり、炎はみるみる燃え広がってついには江戸中を焼き尽くした。
こんな言い伝えから、明暦の大火は「振袖火事」ともいわれる。
当日のようす
明暦の大火が10万人という空前絶後の死者を出す大火災となった原因は、これは強風に関係しているのだが、飛び火による延焼が猛烈なスピードで進んだことにある。
第2次世界のころの火事と比べて数倍の速さというから、炎は生き物のように江戸の建物や人をのみ込んだはず。
火の粉は隅田川を越えて、その反対側にも燃えうつったから恐ろしい。
これは内閣府の「防災情報のページ」にある記述。
この大火での死者は、焼死以外に、橋が火災で落ちてしまったために川岸に追い詰められ、川に飛び込んだことによる凍死の数や大火後の凍死者や餓死者も多かったと記録されている。
このときは冬だったから、火災なのに凍死した人もいた。
徳川家康が江戸城に入ったときから、江戸で起きたことを記録した『武江年表』(ぶこうねんぴょう)には、「大雪降、米価一時に発揚して、賎民の困苦甚だしく、道路に悲泣す。」とある。
値段が急激に上がったために米を手に入れることができず、道路で泣いて、そのまま飢えて死ぬ人も多かったのだろう。
大火事の次は大雪とか、残酷にもほどがある。
この大きな不幸の中には、キラリと光る美談もあった。
ある牢屋奉行(役人)はこのままだと焼死するしかない罪人を哀れに思って、「炎から逃げのびることができたら、必ず戻ってくるように」と伝えて罪人たちを解き放った(切り放ち)。
涙を流して役人に感謝した罪人は、約束通り全員が戻ってきたという。これを聞いた幕府は「あっぱれ」と罪人の減刑をおこなった。
明暦の大火のあと、火災の時に罪人を牢から出す「切り放ち」が制度化された。
解放された罪人を見て「集団脱走している!」とカン違いした役人が門を閉めてしまう。
その結果、逃げ場を失った多くの人が焼かれ、何とか壁を乗り越えた人も堀に落ちてしまった。そのまま凍死した人もいたはずだ。
これは浅草門のようすで、上の話とは別のところ。
この大火は人々の意識も日本の社会も大きく変えた。
それまでは江戸城を守るために、隅田川に橋は先住大橋しかなかったのがこのあと両国橋がつくられた。
神社やお寺にある「燭台」や「灯籠」などの燈明(とうみょう:神仏に供える灯火)が火災の原因となることが多かったから、江戸の中心地にあった神社仏閣は移転を命じられて浅草、駒込、三田などに移った。
だから現在でもこの辺りにはお寺が多い。
燭台
明暦の大火では、多くの庶民が下に車輪のついた「車長持」で家財道具を運び出そうとした。
でもそうすれば交通渋滞が発生するのは必然。
多くの犠牲者が出たことから、明暦の大火以降、車長持の製造販売が江戸・京都・大阪の三都で禁止された。
車長持に荷物を満載して避難する人たち
延焼を防ぐために、市内に広小路や火除地といった空き地が設置されたのもこの火災のあとからだ。
江戸時代につくられた火除地
「ノーモア・明暦の大火」で大規模な火災対策をしたことで、幕府の予算はキレイに消えてしまった。
それで焼け落ちた江戸城の天守閣の再建が不可能になる。
だから明暦の大火のあとの時代劇で、「天守閣があるのはおかしい!」と細かい突っこみを入れるのが好きな人もいる。
どこぞの独裁国家じゃあるまいし、天守閣の分を民衆の安全のために使ったのは賢明だ。
ということで「この魚、ひげが生えてる!」と笑い出したスペイン人には分からないかもしれないが、しゃちほこには日本人の恐怖や願い、いろいろな思いが込められている。
石とレンガ、紙と木の建物に住んでいる人間では、発想の根本が違うのだ。
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>両国では伝統的に建築素材はレンガや石だから、紙と木でできた建築物とはまったく違う。
>石とレンガ、紙と木の建物に住んでいる人間では、発想の根本が違うのだ。
ここのところ、ちょっと勘違いしやすいので一言。ヨーロッパの建物は確かに柱・壁は石材やレンガでできているのですが、床組と屋根は(ドーム屋根などごく一部の特殊な建築物を除いて)ほとんど木造なんです。昨年、パリのノートルダム大聖堂が大火災に見舞われました。あのときの写真を見てみると分かりますが、壁は燃えてないけれども、屋根から大きな炎が上がっていることが分かります。
>この火災の少し前、江戸には梅乃という娘が住んでいて、一目惚れした少年と恋仲になることも、思いを打ち明けることもないままこの世を去ってしまった。(改行)寺の坊さんがお経を読みながら、かわいそうな梅乃の振袖を火の中に投げこむと、とつぜん狂風が吹きおこって裾に火のついた振袖が空に舞い上がる。(改行)そして寺の大屋根に火がうつり、炎はみるみる燃え広がってついには江戸中を焼き尽くした。
>こんな言い伝えから、明暦の大火は「振袖火事」ともいわれる。
この伝説なんですが、梅乃が一目惚れした美しい少年こそが、その経を読んだ坊主(稚児)だったのでは? だとすれば、その小坊主が火に投げ込んだ振り袖が、梅乃の恨みを晴らそうと大火を起こしたのも納得できる気がします。
悲しい話ですねぇ。きっと江戸の人たちも「そんな事情があってはなぁ・・・」くらいには考えたことでしょう。