いま千葉が大変だ。
台風15号におそわれて屋根瓦が吹き飛ばされたり、大規模停電が続いたりして各地で被害が出ている。
この影響ですでに複数の人が亡くなった。
天災のあとは人災だ。
台風が過ぎ去ったら、犯罪者が現れやがる。
瓦を飛ばされた人の家に業者がやって来て、「屋根を修理します」と言ってガムテープでビニールシートを貼り付けただけで18万円以上を請求する。
本人は施工業者を名乗ったけど、実際のところ何者かは分からない。
他人の弱みでもうける悪徳業者がいれば、とんでもない物を盗むヤツもいる。
停電で止まった信号機を動かすために、警察が非常用発電機を設置したところ、すぐにいくつも盗まれてしまった。
さらに停電が続く地域では、休業中の店や事務所などが空き巣に入られる。
北斗の拳の世界は南アフリカのヨハネスブルグと聞いていたけど(実際にはポル=ポト時代のカンボジア)、千葉もそれに近づきつつあるのか?
そんな中、干天の慈雨のようなニュースもあった。
テレビドガッチの記事(2019.09.20)
マツコ、ロケ帰りの海ほたるでお土産を爆買い「千葉県のために…」
マツコ・デラックスさんがテレビ番組のロケで東京湾アクアラインの「海ほたる」を訪れたとき、千葉県出身のマツコさんはお土産屋を見つけると、
「千葉県のために私は買います!」「お金を落とさないといけない」と宣言し、落花生、びわゼリー、カレー、ピーナッツバターなどを大量に買い込んだ。合計82点を購入して、マツコが所属する事務所のスタッフや、番組スタッフへとプレゼントすることを明かした。
これを見て、明治時代の日本にやって来たアメリカ人の学者モースの記録を思い出した。
あるとき東京かその近くで大火事が発生する。
そのときの日本人の様子を友人のスコット氏から聞いて、モースはとても感心した。
自宅や店が焼け落ちてしまったのだけど、日本人は悲観していない。
「焼け出された人々も必ず幸福そうにニコニコしている」という状態。
当時の日本人は火事には慣れていたし、困ったときには必ず助けてくれる人がいるから。
人々は非常に思いやりが深く親切で、態々火事のあった場所へ買物に行く結果、焼け出された所で大した苦にはならぬ。
「日本その日その日 03 (モース エドワード・シルヴェスター)」
困ったときの「買って応援」は日本には明治時代からあったのだ。
思いやりで結ばれた相互互助の精神は江戸時代から続いてきたものだろう。
またモースが実際に大きな火事を見たとき、その様子をこう記している。
背中に子供を負った辛棒強い老婆、子供に背負われた頼りない幼児、男や女、それ等はすべて、まるで祭礼でもあるかのようように微笑を顔に浮べている。この一夜を通じて私は、涙も、焦立ったような身振も見ず、また意地の悪い言葉は一言も聞かなかった。
「日本その日その日 03 (モース エドワード・シルヴェスター)」
冷静なのはわかるけど、先ほどの「にニコニコ」といい、なんで明治の日本人は微笑みを浮かべていられるのかよくわからない。
こちらの記事もいかがですか?
震災後の泥棒その他犯罪者集団は、東日本大震災のときもありました。さらに以前では太平洋戦争後のどさくさ時期にも治安がかなり乱れたこともあったでしょう。だから今回、台風の被害後の千葉でことさら治安が悪化したわけでもないと思います。どこの国でも多かれ少なかれこういう現象はあります。日本だって例外ではありません、残念ですが。
平和ボケは、自分の頭で考えて生きる力を失うことにつながります。ユートピアには、真の幸福はありません。
日本の治安は世界でも最高レベルにいい、という認識は国の内外であります。
ですが、平和ボケはできません。
災害時でも、だからこそ人の弱みに付け込む人間がでます。
注意はすべきですね。
でも、悪い人間ばかりでもないことも事実です。
明治期、大きな火事が発生した場合、木と紙でできた日本家屋で、死傷者が全くなかったはずはありません。
ニコニコしていた、のは、モースにはそう見えた、だけなのでしょう。
現在の日本人が、海外の方によく指摘される、喜怒哀楽表現の薄さが、明治期は、さらに薄かったのでしょうか?
死傷者は出たはずですし、悲しいはずだと思うのですけど、笑顔を浮かべる理由はよくわかりません。
幕末・明治の記録を見ると、喜びや驚きはこの時代の日本人のほうがストレートに表していたと思いますよ。
なるほど
調べてみます