鎌倉時代の1281年のきょう6月9日、モンゴル人・漢人・高麗人などによる軍隊(東路軍)が壱岐・対馬に攻め込んで、元寇のラウンド2である「弘安の役」が始まった。
この弘安の役では兵力50万以上という、世界史レベルでも最大規模の艦隊が日本を襲ったものの、鎌倉武士の奮闘や「神風」と呼ばれた暴風雨によって返り討ちにされる。
6月9日、東路軍の張成らは防御に徹して陣を固め、攻め寄せる日本軍に対抗するなどして奮戦した。しかし、この日の戦闘も日本軍が勝利し、東路軍は敗戦を重ねた。
元軍の侵攻から日本を守った北条時宗は、このときの死者を敵・味方に関係なく弔うため、円覚寺の建立を思い立つ。
円覚寺では日本の武士も、元軍や高麗軍の兵士もみんな平等に扱われていると、鎌倉旅行で台湾人、タイ人、インドネシア人、香港人に話をするともれなく感動する。
歴史をみると日本人にはこんな感じに、戦いに敗れた敵に配慮や敬意の意を示すことがたびたびある。
平安時代に坂上田村麻呂と戦って、破れて処刑された阿弖流爲 (アルテイ)と母禮(モレ)の慰霊碑が坂上田村麻呂の建てた清水寺にある。
京都旅行でこの話を3人の韓国人にすると、みんな「すばらしいですね!」と感激した。
時代は流れて明治時代の日清戦争のときには、日本軍と勇敢に戦って負けた清の将軍・左宝貴(さほうき)のために、彼をたたえる碑を建てて、イザベラ・バードというイギリス人がそれを知って心を動かされる。
将軍が斃れたと思われる地点にはまわりに柵をめぐらした端正な碑が日本人の手で立てられており、その一面にはこう記してある。
奉天師団総指令官左宝貴ここに死す。
またべつの面にはこうも記してある。
平壌にて日本軍と戦うも、戦死。
敗軍の名将に捧げた品位ある賛辞である。
「朝鮮紀行 (講談社学術文庫) イザベラ・バード」
同じく明治の日露戦争では、ロシア軍との激戦を制して日本軍が旅順要塞を陥落させたあと、両軍の間でこんな会見(水師営の会見)が開かれた。
真ん中の2人が乃木希典将軍とステッセリ将軍
このとき乃木が、
「敵将に失礼ではないか。後々まで恥を残すような写真を撮らせることは日本の武士道が許さぬ。」
と言い、敗者であるステッセリ将軍の名誉を守ろうと、対等な立場でこの記念撮影を行った。
乃木の戦いぶりやその精神は広く海外へ伝わり、世界各国が称賛する。
乃木に対しては世界各国から書簡が寄せられ、敵国ロシアの『ニーヴァ』誌ですら、乃木を英雄的に描いた挿絵を掲載した。また、子供の名前や発足した会の名称に「乃木」の名や乃木が占領した「旅順」(アルツール)の名をもらう例が世界的に頻発した。加えて乃木に対しては、ドイツ帝国、フランス、チリ、ルーマニアおよびイギリスの各国王室または政府から各種勲章が授与された。
この有名なエピソードは乃木希典だけに注目が集まりがちだけど、これが実現したのも、明治天皇のこんなお言葉があったからこそ。
日露戦争において旅順陥落の知らせを聞いた明治天皇の最初の発言は、降伏したロシアの将軍ステッセルの武人としての名誉を大切にせよというものでした。
よかったとか、すばらしい勝利だということではなかった。敵の将軍のことを心配していたのです。これは立派な態度だと私は思います。
「明治天皇を語る (新潮新書) ドナルド・キーン)
そして最後は昭和の太平洋戦争。
このとき日本人のこんな行為が現代のアメリカ人を感動させた。
*ここでは最後の文だけに注目してほしい。それ以外の部分は背景が分からない。
#パックン
「日本はホロコーストをやったドイツと一緒」
「我慢するのが日本のおもてなしの心」と発言。
アメリカ人が日本という場所で日本人に対して我慢しろ?同じアメリカ人として許せないね。
日本人は敵である米兵の冥福を祈りお墓まで作りました。私はこんな素晴らしい国を他に知らないよ。 pic.twitter.com/LW4c68SPsu— William B.Martin (@WilliamBMartin8) September 28, 2019
いまの日本人が武器を持って戦うことはもうなくて、あるとすればスポーツぐらいか。
日本サッカー協会では「リスペクト宣言」で「相手に敬意を払う」ということを重視している。
特に相手が敗者になったときこそ、敬意を示すという日本人らしい精神はこれからも大事にしていきたい。
Why Japanese! 外国人にとって日本語の敬語はココが難しい
コメントを残す