坂上田村麻呂が建てた清水寺にある、「阿弖流為と母禮」の碑

 

清水寺の舞台から「えいっ」と飛び降りて、ちょっと右へ行くとこんな石碑がある。

 

 

まえに2人の台湾人を清水寺に案内して、彼らはこの石碑を見つけると「何ですかコレ?さっぱり意味が分かりません!」とビックリする。
アメリカ人やタイ人を連れてきたときは素通りだったけど、マクドナルドを「麥當勞」、モスバーガーを「摩斯漢堡」と書く漢字の民族だからこそ、この文字には引っかかるらしい。
さて、阿弖流為と母禮とはいったい何のことで、なんでこんな記念碑が清水寺にあるのか? というのが今回のテーマですよ。

 

古代日本で地方の敵を討伐するために、朝廷から派遣された遠征軍のトップを征夷大将軍といった。
初めて征夷大将軍に任命されたのが奈良時代の大伴弟麻呂(おおとも の おとまろ)で、次が桓武天皇を支えた坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ:758年~811年)になる。
源頼朝が征夷大将軍になって幕府を開いてからは、いまの日本人が一般的にイメージする武家政権のトップを意味するようになった。
京都にある清水寺は坂上田村麻呂によって建てられ(坂の上にあるだけに?)、清水寺のHPによると、音羽の滝の清らかさから田村麻呂が「清水寺」と名付けたという。

 

坂上田村麻呂

 

奈良や京都から見て東、いまの関東地方や東北地方、北海道には「蝦夷(えみし)」と呼ばれる人たちがいて、その征伐を朝廷からまかされた総指揮官が征夷大将軍。
遠征軍の総大将である将軍に任命された坂上田村麻呂は、戦いの勝利を清水寺に願ったという。

 

このころいまの岩手県のあたりに蝦夷(えみし)のリーダーの阿弖流爲 (アルテイ)と、同じくリーダーとされる母禮(モレ)がいた。
アルテイら蝦夷は戦上手で、789年の巣伏(すぶし)の戦いでは桓武天皇から派遣された朝廷軍を、地形をうまく利用し挟み撃ちにして撃破する。
でもその後に、遠征軍を率いてやってきた坂上田村麻呂は、後に「王城鎮護」や「平安京の守護神」と称えられるようなチートレベルの武人で、アルテイとモレもさすがに勝てずに降伏し、802年のきょう5月19日にその知らせが平安京に届いた。

捕虜となったアルテイとモレをどうするべきか?
田村麻呂は2人を故郷に返して、現地を治めさせるのがイイと主張したが、彼らは野獣のようなものだから、ここで故郷に戻せば後々、朝廷にとって禍(わざわい)になるという公卿らの意見が通って、アルテイとモレは処刑される。

それから時が流れて、平安遷都1200年の1994年に関西岩手県人会などによって、清水寺に「北天の雄 阿弖流為 母禮之碑」の記念碑が建立された。
マクドナルドを「麥當勞」、モスバーガーを「摩斯漢堡」とするように、阿弖流為も母禮も、アルテイとモレという蝦夷(えみし)の名前に漢字を当てたものだから特別な意味はない。
カタカナ表記でもよかったのでは?
それにしても遠征軍の将軍が勝利を祈願したお寺に、その敗者の慰霊碑があるというのは珍しいと思う。

 

 

【お盆だね】迎え火の目的、京都“五山の送り火”の二つの要点

【景観論争】”美と文化”を愛する京都人とパリ市民が怒ったもの

外国人客の激増:日本人の“京都離れ”?京都の“日本人離れ”?

外国人から見た不思議の国・日本 「目次」

外国人から見た日本と日本人 15の言葉 「目次」

世界の中の日本 目次

多文化共生社会 目次

 

2 件のコメント

  • > 阿弖流為も母禮も、アルテイとモレという蝦夷(えみし)の名前に漢字を当てたものだから特別な意味はない。(改行)カタカナ表記でもよかったのでは?

    ははは、それはないでしょう。
    カタカナが成立したのは10~11世紀の頃、ひらがなについてはその少し前の9~10世紀の頃と言われています。しかも明治になるまで異体字(現在のひらがなとは異なる形のひらがな)がたくさんあった。現在のようにひらがなが1音1文字に確定したのは明治政府がなしたことです。
    つまり、「桓武天皇を支えた坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ:758年~811年)」の頃の日本で主に使われていたのは、正式文書扱いとして存在した漢文(中国語)と、万葉仮名つまり「漢字の当て字だけで書いた日本語」だったのです。なので阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)に漢字を当てたことは、当時の日本語の記法としては至極まっとうな使い方であったということです。

  • ウィキペデアもそうですが、カタカナ表記の「アルテイ」は一般的によくあります。
    そのほうが分かりやすいからでしょう。

  • コメントを残す

    ABOUTこの記事をかいた人

    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。