【日本の中国へ見方】弥生は属国、飛鳥は対等、鎌倉で優越感

 

日本についての最古の記録は「魏志倭人伝」にある。
そこにえがかれている弥生時代の日本の様子はこんな感じだ。

・男性は大人も子供も、みな顔や体に入墨をしている。
・牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。
・土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である。
・飲食は高坏(たかつき)を用いて、手づかみで食べる。
・身分の低いものが高いものと道で逢うと、しりぞいて草に入る。

くわしいことは「魏志倭人伝」をどうぞ。

この魏志倭人伝の中に、「鬼道」によって倭国(邪馬台国)を統一したという女王・卑弥呼が登場する。
このころの中国は三国志の真っ最中。
卑弥呼は魏国に使者をおくって国交を開いて、魏からは「親魏倭王」の称号と山盛りの贈り物をもらった。
「親魏」には他国の上に存在するという名誉の意味があり、魏からこれを認められたのは邪馬台国の卑弥呼と大月氏国というインドの王の2人しかいない。

では、なんで卑弥呼は「親魏倭王」という、当時の中国からすると破格の待遇を受けられたのか?

日刊ゲンダイの記事(2019/12/18)で、歴史家の加来耕三氏がその理由をこう書いている。

魏が呉、蜀の2国と激しく戦い、競い合う三国鼎立(ていりつ)の時代だったことにある。魏は呉と蜀を牽制するために邪馬台国、大月氏国との同盟関係をアピールする必要があった。そうでなければ、小国の邪馬台国を実力以上に優遇する必要はなかったのだ。

鬼道で邪馬台国を統一 古代の女王「卑弥呼」の正体とは?

 

この記事にネットの反応は?

・で邪馬大国は何処の県が正しいんだい?九州?
・山形県やろ
・まあ 岡山なんですけどね 邪馬台国があったのは
・栄光の地、群馬にあったに決まってる
九州とか嘘つくな
・各都道府県対抗邪馬台国争奪戦!

現代の日本人にとっては「親魏倭王」という古代の名誉はどうでもよくて、関心があるのは邪馬台国の場所らしい。
日本人が文字(漢字)を使い始めたのは6世紀ごろといわれるから、この時代には歴史を記録する方法がなかった。
卑弥呼の時代に文字があったら、令和の日本人がこんなに悩まされることはなかったはずだ。

 

魏に朝貢した倭国は魏の服属国だったとみていい。
でもこのあとから日本人に自立心が芽生えてきて、聖徳太子のころになると、「東の天皇・西の皇帝」と日本を中国と“同格”にする親書をわたして隋の皇帝を不愉快にさせた。

くわしいことはこの記事をどうぞ。

【島国のメリット】日本と中国・韓国の違いは、国が文明だった

それでも遣隋使や遣唐使を派遣していろんなことを学んでいたから、古代の日本は中国を先進国、いわば“先生”のように考えていたことは間違いない。

では、ここでクエスチョン。

そんな中国に対して、日本が”優越感”を感じたのはいつでしょう?

 

その答えは人によって違うだろうけど、戦前の東洋史学の権威・内藤湖南に言わせるとそれは「元寇」のあとだ。

内藤湖南は邪馬台国は畿内にあったと主張した。

東京帝国大学の白鳥庫吉とは「東の白鳥庫吉、西の内藤湖南」「実証学派の内藤湖南、文献学派の白鳥庫吉」と並び称された。

内藤湖南

 

著書「日本文化の独立」で内藤湖南は、中国(宋)を滅ぼしたモンゴル軍を日本が撃退したことで、「ここに面白い現象が起っているのであります」と指摘する。
日本人の中で、それまで「日本文化の師匠」として尊敬されていた中国の地位が失墜したのだ。

支那といふものが日本人に取つてあまり有難くなくなつた、そして其支那を亡ぼした所の蒙古をも日本が神の力で退けたのですから、日本はよほど偉いのだといふので、其神の保護を受けるといふことはよほど偉い事に思はれただらうと思ひます。

「日本文化の独立 (内藤 湖南)」

*「支那」は中国のこと。現代では中国への侮蔑語になるからNGワード。

 

弥生時代には「親魏倭王」として中国の属国だった日本は、飛鳥時代に「対等」となって、鎌倉時代になるとありがたみが薄れて「日本はよほどえらい」と思うようになった。
といっても、この認識がその後の日本でずっとつづいたわけじゃなくて、時代によって中国への見方もかわってくる。
でも、孔子や孟子といった人たちはいつの時代でも「聖人」とみられていたと思う。
令和のいまでは、「政治体制の違う経済大国」といったところか?

 

 

こちらの記事もいかがですか?

中国 「目次」

読めない!日本人のアナウンサーや首相が間違えた難漢字!?

中国人の「日本こそ、中国文化のパクリだ!」が違う理由

日本人の「おもてなし」、マナーの向上・雨乞い~東京オリンピック~

日本はどんな国? 在日外国人から見たいろんな日本 「目次」

 

4 件のコメント

  • >中国に対して、日本が”優越感”を感じたのはいつでしょう? その答えは人によって違うだろうけど、戦前の東洋史学の権威・内藤湖南に言わせるとそれは「元寇」のあとだ。

    うーん、どうですかね? 「中国への”優越感”を感じるようになった」と主張しているその学者が戦前の東洋史の学者ですから、その言説自体が中国への優越感に基づくもの、もっと言えば明治時代以降の大陸進出主義に与する「御用学者」の学説であるような気もします。
    元寇の戦い以降は日本は室町の南北朝・戦国時代へ入ります。室町幕府が成立して力をつけた三代将軍義満の頃には勘合貿易もしていますから、優越感というほどでもなく、対等の貿易相手とみなしていたんじゃないでしょうか? そして南北朝・戦国時代と世が乱れた頃には中国への関心なんぞ抱いている余裕はなかったと思います。
    そうこうしているうちに大航海時代に到達したヨーロッパから南蛮紅毛人がやってきて、その結果キリスト教ほか海外の影響を恐れた江戸幕府は鎖国体制に入ってしまったので、その間、やはり中国に対する関心はそれほど高くはなかったでしょう。優越感とか、尊敬の念とか、警戒心などを感じるほど身近な存在であったとは思えない。論語など学問の書を発するだけの国力がかつてはあった国だと、意識されていたはずです。
    江戸末期から明治に至る際、中国が英国はじめ欧米諸国に蹂躙されるのを見て、日本(明治政府)は、中国の二の舞を踏まぬように自国の力をつけること、また、この時はじめて、中国を倒してアジアから欧米諸国を追い出し日本の勢力圏を築くこと、それができそうなほど中国が弱い国であることを意識するようになったのだと思います。その内藤湖南という学者の怪し気な説も、その時になって政府方針に「迎合」する形で登場した可能性が高いのでは?

  • 邪馬台国ってホントにロマンですよね~♪ 文字がないのにやり取りができていたことが不思議。
    私も邪馬台国の場所の方に興味があります(笑) それにしてもたくさん国があったんですね~。
    魏もよく調べたな。 征服するつもりだったのかも。

  • 受け止め方は人それぞれですが、内藤湖南の業績に匹敵する学者はなかなかいませんよ。
    そういう人の意見にはそれなりの重みがありますし、この本は100年ほど前のもので、いろんな人の目に触れて内容をチェックされたものです。

    義満のばあいは彼一人のことで日本を代表する考え方ではありません。義満が死んだあと、すぐ中国との関係を変えました。
    鎖国していても清とはやり取りをしていましたから、その影響は日本にありました。

    >明治時代以降の大陸進出主義に与する「御用学者」の学説
    これは初めて聞きました。
    この御用学者の代表的人物にはだれがいるでしょうか?

  • 文字さえあれば秒で解決する問題も多いですが、それがなかったからロマンになっているかもしれません。
    三国志ファンとしては「親魏倭王」にそんな背景があったというのは意外でした。

  • コメントを残す

    ABOUTこの記事をかいた人

    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。