「オレひとりの命で、ほかの全員が助かるなら安いものだ」
マンガや小説などのフィクションで、そんな崇高な自己犠牲のシーンはありがちだが、歴史を見ると現実世界で何度も起きている。
自分の命を捧げて他人を救おうとする覚悟や精神は、時代や国を越えて人類を感動させる。
その有名な事例がこちら。
日本には清水 宗治(しみず むねはる)がいる。彼は城内にいる人たちを助けるために、自身の命を投げ出した。それだけなく、彼は切腹という自殺法に「新しい意味」を加えた人物でもある。

男の中の漢、清水宗治
日本の歴史で「三大水攻め」と言われるものが「忍城の戦い」と「太田城の戦い」、そして 1582年の羽柴(豊臣)秀吉による「備中高松城の戦い」だ。
戦国時代の末期、織田信長は京都を制圧すると、将軍・足利義昭を追放して室町幕府を終わらせた。天下統一を推し進める信長にとって、中国地方の雄・毛利輝元はジャマでしかなかったため、羽柴秀吉に平定を命じた。
秀吉は「だが断る」と言うわけなく、すぐに「中国攻め」を開始する。
そんな秀吉の前に立ちふさがったのが、備中高松城で迎え撃った清水 宗治(しみず むねはる)だ。
秀吉は高松城を包囲した後、高台から城を見下ろし、これは簡単に落とすことは不可能で、大きな被害を受ける可能性を感じ、懐柔作戦をとることにした。宗治に使者を送り、降伏すれば2カ国(備中&備後)を与えると伝えた。
提案を受けた宗治は「だが断る」と拒絶し、彼はその書状を主君の毛利輝元に見せ、固い忠誠心を示した。
高松城をなかなか攻略できなかった秀吉は、水攻めをおこなうことを決定。猛スピードで川の流れを変える工事をして、大量の水を流し込んで高松城を囲み、周囲を「巨大な湖」にしてしまった。
この大胆な奇策に、城主の清水宗治もついにギブアップ。
秀吉は高松城を包囲すると同時に、毛利輝毛との和平交渉も進めていた。秀吉が宗治の「首」を要求すると、「主家である毛利家と城内の兵の命が助かるなら安いものだ」と宗治は受け入れた。
実はこの時、「本能寺の変」が起きて織田信長が殺され、秀吉はとてもあせっていたのだが、毛利家も宗治もそれを知らなかった。

陸地なのに海戦のようになった「備中高松城の戦い」
清水宗治は秀吉にもらった酒と肴(さかな)で別れの宴会をして、身なりを整えた後、小舟に乗って秀吉の陣まで行き、ともに酒を飲んで舞を披露する。
そして「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」という辞世の句を残して切腹した。
取り乱すことなく、最後まで落ち着いた様子で腹を切った宗治に秀吉は心から感服し、武士の鑑(かがみ)であると賞賛。
自害する時に切腹することは、武士が現れた平安時代後期、源平合戦のころからあった。
ただそのころの切腹は海に飛び込む入水と同じく、自殺法のひとつでしかなかった。
源義経は敵に追い詰められた時に、武士としてどうやって死ぬのがいいのか考えている。つまり、このころは「切腹=武士の作法」というイメージはなかったのだ。
切腹が名誉ある死に方と認識されるようになったのは、清水宗治の潔さや堂々とした振る舞いに、秀吉が感動したことがきっかけになったと言われる。(切腹)
これによって、ただの自殺方法だった切腹は過去のものになり、新しい価値や意味が生まれた。
自分の命と引き換えにみんなを助けるという、宗治の自己犠牲の精神に秀吉が動かされたことはあったと思う。
江戸時代になると切腹は法的に整備されて、武士として名誉ある死に方(処刑)として定着していく。
いまの外国人がイメージする切腹はコレだ。

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