「オレひとりの命で、みんなが助かるなら安いものだ」なんていう崇高な自己犠牲のシーンは、アニメやマンガでありがちな場面だ。
反面、「自己犠牲なんて 単なる自己満足だ!」と言う人もいる。
でも歴史を見ると、他人を救うために自分の命を捧げる自己犠牲の精神は、時代や国を越えて世界中の人たちを感動させる。
その有名な事例がこちら。
敵軍に包囲されて全市民の命を助けるために、自分が犠牲になろうとしたのが百年戦争におけるフランスの「カレーの市民」。
日本でそんな人を探すとしたら、城内の人たちを助けるために、自分が犠牲になった清水 宗治(しみず むねはる)か。
彼は切腹という自殺法に新しい意味を加えた人物だ。
「日本三大水攻め」と言われるのが「忍城の戦い」と「太田城の戦い」と、1582年の羽柴(豊臣)秀吉と清水宗治による「備中高松城の戦い」だ。
このとき秀吉は川の流れを変える工事を猛烈なスピードでおこなって、水を流し込んで高松城を囲み、周囲を巨大な湖にしてしまった。
この大胆な奇策に、城主の清水宗治もついにギブ。
宗治の命と引き換えに、城内の兵を助けるという秀吉の呼びかけに応じる。
*じつはこの時、本能寺の変が起きて織田信長が殺され、秀吉が超あせっていたことを宗治は知らなかった。
陸地なのに海戦のような「備中高松城の戦い」
清水宗治は秀吉にもらった酒と肴(さかな)で別れの宴会をして、身なりを整えた後、小舟に乗って秀吉の陣まで行き、ともに酒を飲んで舞を披露する。
そして「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」という辞世の句を残して切腹した。
最後まで取り乱すことなく、落ち着いた様子で腹を切った宗治に、秀吉は心から感服して武士の鑑(かがみ)であると賞賛する。
自害する時に切腹することは、武士が現れた平安時代後期、源平合戦のころからあった。
ただそのころの切腹は海に飛び込む入水と同じく、自殺法のひとつでしかなかった。
源義経は敵に追い詰められた時に、武士としてどうやって死ぬのがいいのか考えている。つまり、このころは「切腹=武士の作法」というイメージはなかったのだ。
切腹が名誉ある死に方と認識されるようになったのは、清水宗治の潔さや堂々とした振る舞いに、秀吉が感動したことがきっかけになったと言われる。(切腹)
これによって、ただの自殺方法だった切腹は過去のものになり、新しい価値や意味が生まれた。
自分の命と引き換えにみんなを助けるという、宗治の自己犠牲の精神に秀吉が動かされたことはあったと思う。
江戸時代になると切腹は法的に整備されて、武士として名誉ある死に方(処刑)として定着していく。
いまの外国人がイメージする切腹はコレだ。
男の中の漢、清水宗治
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