【幕末のイイ話】ロシアのプチャーチンとしたたかな日本

 

上の船はロシア軍艦「ディアナ号」のレプリカ(実物の約1/3)。
静岡県富士市にある「田子の浦公園」に行けば見ることができる。
ディアナとはロシア語で、ローマ神話に出てくる月の女神「ディアーナ」を指す。(英語だとダイアナ)
なんで富士市にロシアの軍艦があるのかというと、それは1853年のきょう8月22日、ロシアの軍人プチャーチンが艦隊を率いて長崎に到着したことと関係しているのだ。

 

プチャーチン

 

東アジアでの影響力を強めたい。
そう考えたロシアの皇帝ニコライ1世は、アメリカのペリーが日本と条約を結ぶために出航したことを知り、同じく日本との条約締結のためにプチャーチンを派遣することにした。
そして1853年8月22日、ペリーに1ヵ月半ほど遅れてプチャーチンは長崎へ来航し、江戸幕府に国書を渡す。
プチャーチンは翌1854年にもディアナ号で日本へやってきて、下田で幕府の川路聖謨らと交渉を行った。
しかし、まさかのトラブル発生。
12月23日に安政東海地震が起きて、ディアナ号は津波で大破し乗組員に死傷者が出る。
この混乱の中で、プチャーチンらは波にさらわれた日本人を救助したことで、幕府の役人に好印象を与えることができた。

その後、ダメージを受けたディアナ号は、駿河湾のいまの富士市の近くで沈没する。
ただ村人の救助もあって乗組員は全員無事だった。

*この時の懸命な救助活動を郷土の誇りと思い、後世に語り継ごうとした人たちによって「ディアナ号」のレプリカがつくられた。

そしてナンダカンダあって1855年に幕府との交渉によって、プチャーチンはついに日露和親条約の締結に成功する。
この条約で、千島列島での日本とロシアとの国境が択捉島と得撫島の間ときまった。

 

ディアナ号の鎖(たしか)

 

日露和親条約を結んだ後、戸田村に滞在していたプチャーチンのために、幕府が代わりの船がつくることにする。
戸田村民の好意を受けて、「ミナサン、アリガトウゴザイマス。ホントマジデ」とプチャーチンは感激して船名を戸田にちなんで「ヘダ号」とした。
このヘダ号とアメリカの船に乗って、プチャーチンら一行は無事ロシアへ戻ることができましたとさ。
めでたしめでたし。
…だけでこの話は終わらなかった。

開国をきめた日本にとってヘダ号をつくることは、西洋船の建造技術を習得する絶好の機会になる。
いまこそ好機!と考えた幕府はヘダ号と同時に、もう一隻の船を戸田で建造していた。
佐賀や水戸藩の藩士も戸田に来て技術を習得している。
この経験で必要な知識や技術を身につけた日本人は、その後に西洋船を次々とつくり出していく。

同年6月6日(安政2年4月22日)にも2隻の追加を指示。同年9月16日(安政2年8月6日)には、戸田でさらに3隻のほか、石川島造船所でも4隻の建造を命じた。

ヘダ号

ヘダ号

 

プチャーチンは日露和親条約を結ぶことができ、日本人の大工に船をつくってもらって部下とロシアへ帰ることができた。
日本はしたたかにプチャーチンたちから勝手にもらうものをもらって、西洋船を自作できるようになる。
その前には互いが互いの命を救ったし、これは幕末の日本とロシアの間にあった理想的なウィンウィンだ。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。