「悲劇の白虎隊」からの、ウソ話で動いたムッソリーニ

 

「おっ、お城が燃えている!」

小高い山にいた少年たちは、会津・若松城が煙を上げているのを見てそう叫ぶと、「もはやこれまで」と絶望し集団で自害するーー。

むかし見た幕末の戊辰戦争のドラマで、そんなシーンがあって涙腺が決壊した思い出。
薩摩・土佐藩を中心とする新政府軍と会津藩が戦った会津戦争で、1868年のきょう10月8日、10代の少年で構成される白虎隊の隊士たちが落城を知り、飯盛山で自らの命を絶つ。
…ドラマではそんな展開だったのだが、「お城が炎上してると思った」説は間違いで、実際にはこれからどうするか隊士の間で激論になり、最後は武士らしくここで散ろうということになったらしい。
このとき唯一生き残った隊士の飯沼 貞吉(さだきち)は新政府軍に捕まって、長州藩士の家にあずけられた。
生きていることを恥と思った貞吉は自殺しようとするも、

「今、日本には外国船が押し寄せており、会津・長州と言っている場合ではない。日本人は団結して国を強くしなくてはならず、その担い手は若者だ。国の役に立てるよう勉強せよ」

と大人に諭されて、それからは勉学に全集中したという。
ちなみに白虎隊は全滅したわけではなく、300人近くが会津戦争を生き残った。

 

飯沼 貞吉

 

白虎隊の隊士たちが自決した飯盛山には、いまこんなものがある。

 

 

第一次世界大戦後のイタリアで政治や軍の権力を握り、絶対的な独裁者となったムッソリーニ。
彼はエチオピアを侵略してスペインの内戦に介入し、さらにナチスのヒトラーと組んで第二次世界大戦に参戦する。
でも結局は敗北して国民の怒りが爆発し、最期は愛人と一緒に処刑されて遺体はミラノ中央駅前の広場に放置された。
くわしいことはこの記事を。

いまイタリア人は“あの”独裁者、ムッソリーニをどうみるか?

 

なんでイタリアの独裁者が、会津藩の少年兵のために記念碑を贈ったのか?
この両者の仲介者となったのは下位 春吉(1883年 – 1954年)という人物。
彼は義勇兵として第一次世界大戦中、イタリア陸軍で戦って「カメラータ・サムライ(侍の戦友)」と呼ばれたこともある。
そんな春吉があるとき日本でこんな発言をした。

「ムッソリーニが白虎隊の話に感激して、記念碑を建てたいと言っている」

でも、実はこれは春吉の創作。
彼は“サービス精神”から、若松市の市長にこんなことを言ったらしい。
でも、当時の日本はイタリアと同盟関係を結んでいたこともあって、この発言は注目を浴びて新聞で報道されるようになる。
すると、外務大臣や首相を務めた幣原 喜重郎などの大物がこの「記念碑計画」に賛同する。
「うそですメンゴメンゴ」と言うタイミングを失った春吉が、このときどう思っていたのかはナゾ。
ついに外務省が動き出してムッソリーニに打診すると、1928年にイタリアから記念碑が届いて、それが飯盛山に建立されて今に至る。
日本に配慮したムッソリーニは春吉のウソ話を否定することなく、記念碑を寄贈してくれたらしい。
でも白虎隊の悲劇は本当だから、隊士の忠義や純粋な気持ちに知って、ムッソリーニの気持ちが動いたと思う。
でも春吉、ウソはいかん。

 

 

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ヨーロッパ 目次 ③

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。