太平洋戦争中に起きた悲劇「葛根廟事件」については前回に書いた。
きのうは8月23日だったんで、今回は戊辰戦争で起きた悲劇について書いていこう。
「江戸幕府とかいう旧体制はぶっ壊してやる!」という薩摩・長州・土佐藩などからなる明治新政府軍と、旧幕府軍との間で行われた戦いが戊辰戦争。
江戸を制圧したあと新政府軍が北上すると会津藩がこれを迎え撃ち、1868年(明治元年)に 「会津戦争」がぼっ発する。
故郷を守るため会津藩は武家の男子を、
玄武隊(50歳以上)
青龍隊(36歳から49歳)
朱雀隊(18歳から35歳)
白虎隊(16と17歳)
の四部隊に編成して新政府軍と戦うことにした。
隊名となった玄武・青龍・朱雀・白虎は、東西南北の四方を守る中国の神獣(四神)に由来する。
ちなみに土俵にある四つの房もコレなのだ。
出典:Peter 111
でも、明治新政府軍の持ってる武器のレベルは、会津藩とは比較にならないほど上だったし、経験と訓練が不足していた少年兵の白虎隊が勝てるはずもない。
必死の奮闘もむなしく彼らは飯盛山に逃げ込み、そこで7人や20人ともいわれる白虎隊全員が自害をはかる。
このとき城下町から炎と煙が見えて「会津城が落とされた!」と絶望し、ならば最期は武士らしくと腹を切って死んだ。というのを時代劇で見て心が震えるほど感動したんだが、どうやらこれは後世の創作で、このとき白虎隊の隊員は落城したというカン違いはしていなかったらしい。
白虎隊の少年兵が自害した8月23日が現在、「白虎隊自刃の日」という記念日になっている。
でもこのとき、刀でのどを突いた飯沼 貞吉(いいぬま さだきち)だけが生き残って、彼のおかげで白虎隊の悲劇が世間に伝わることとなった。
白虎隊というと、この集団自決の話がとても有名。
でも隊員は約340名いて、そのうち290名は会津戦争のあとも生きていた。
福島県・会津若松市にある白虎隊の像
画像は Amcaja
この白虎隊と並んで有名な、戊辰戦争での悲劇の象徴が「二本松少年隊」だ。
会津藩と同じく現在の福島県にあった二本松藩も、13歳から17歳の男子で二本松少年隊を編成して明治新政府軍と戦うことをきめる。
年齢が達していなくても「戦いたい!」という気持ちを抑えることができず、母親に何度も頼み込んで出陣を許された12歳の久保豊三郎のような兵もいた。
「子ども扱いするな!」と言う子どもは、親にとってはホントやっかい。
白虎隊と違って、二本松城に立てこもっていた重臣らは抵抗をあきらめて、城に火を放ち自分たちは自刃する。
でも、城外にいた二本松少年隊はこの落城を知らなかった。
したがって上から何の指示も送られず、最前線で「放置状態」となった少年兵は新政府軍との戦闘で次々と命を落としていく。
その過程では新政府軍の兵士でさえ、信じられないようなことがあった。
13歳になる少年兵と遭遇した土佐藩兵が、幼さに驚愕して生け捕りにしようとするも、抵抗されたために射殺するしかなかったケースもあった。
二本松少年隊の像
出典:baku13
日本ではもう歴史の中の話でも、いまでもアフリカでは、10代前半の少年が銃を持って戦っているという報道をテレビで見る。
子どもが被害者にも、加害者にもならない日が早くきますように。
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飯盛山に行った時に鉄十字(アイザーネスクロイツ、鉤十字ではありません)の
刻まれた石碑があって驚きました。
建立されたのは戦前で、近くのイタリア記念碑とあわせ今からすると色々と思う所がありますが
ドイツ人が白虎隊の最後に思いを致してくれた事を嬉しく思います。
http://ehatov1896rekishi.diary.to/archives/2052079.html
https://www.lib.fukushima-u.ac.jp/repo/repository/fukuro/R000000215/1-165.pdf
また行く機会があったら、リヒャルト・ハイゼご夫妻のお墓参りもしたいですね。
飯盛山に鉄十字があるというのは初耳です。
博識ですね。
kokontouzai 様
職場の旅行で訪れた時に見かけて驚きました。
✠なんかミリオタでも無い限り反応しませんから、他の同僚は全くスルーでした
http://gogodango.blog69.fc2.com/blog-entry-197.html?sp
そうですね。
それに食いつくのは、それなりの予備知識のある人だけでしょう。