いま世界で最も混乱していて、悲惨なことが起きている場所のひとつにアフガニスタンがある。
イスラム主義のタリバンが首都カブールを包囲すると大統領は国外へ脱出し、アフガニスタンのほぼ全土がタリバンの支配下におかれた。
日本内外のメディアが伝えるところによると、いま現地でこんなことが起きているらしい。
タリバン戦闘員が住民の家に侵入して、車を奪うなどの略奪を繰り返している。
市民のスマホを取り上げて通話記録などを確かめる。
宗派の異なる少数民族が拷問された。
女性の外出禁止、女学校の閉鎖などが相次いでいる。
「食事がまずい」とタリバン戦闘員が調理人の女性に火をつけて殺した。
こんな行為についてタリバン側はこう説明する。
読売新聞の記事(2021/08/23)
タリバン報道官は一部の戦闘員による蛮行を認めたが、「我々も人間だ。過ちは仕方がない」と開き直った。構成員らの処罰には言及しなかった。
タリバン戦闘員「食事がまずい」、女性に火をつけて殺害…女学校の閉鎖相次ぐ
タリバンの報復を恐れアメリカへの移住を希望していても、現状ではそれができない男性は「誰か、助けてくれ」と言うしかできない。
いまのアフガニスタンは、これまで国民を守っていた警察や軍隊が消えてしまった状態だから、叫び声を上げても無駄、タリバンの人間に何をやられても抵抗することはできない。
さて、日本の歴史でこんな状態に置かれた国民はいただろうか?
自分たちを守ってくれる存在がなくなって、敵の好き放題にされた悲惨な出来事というと、1945年に満州(中国東北部)で起きた葛根廟事件(かっこんびょうじけん)を思い出す。
日本の歴史であった数々のせい惨な事件の中でも、これほどの地獄はまずない。
そのころ日ソ中立条約を結んでいた日本は、ソ連との国境近くにあった軍隊を南方に送っていて、満州の守りはかなり手薄になっていた。
「国家として約束したのだから、ソ連軍は攻めてこない」というお花畑的な発想が通じる相手ではなく、1945年8月9日、ソ連は中立条約を破棄して多くの日本人の住む満洲に攻め込んだ。
国境付近を守備していた日本軍(関東軍)はすぐに壊滅し、ソ連軍は女性・子供・老人の日本人が多く住む地域に近づいてくる。
頼りになる成人男性は政府から召集をかけられ、軍人として南方へ送られていた。
下の赤い部分、満州国興安総省にある「葛根廟(かっこんびょう)」という場所で虐殺は起こる。
軍の守りのないまま南へ逃げていた約千数百人の避難民は1945年8月14日、このあたりでソ連軍と遭遇する。
合計30台以上の戦車とトラックに乗っていた歩兵部隊に、白旗を上げて近づこうとした浅野良三をソ連兵は機関銃で射殺。
それが始まりの合図で、女や子ども、老人の集団にソ連軍が襲い掛かった。
産経新聞の記事(2018/5/13)
戦車は列を通り過ぎてから反転し、再び列に突っ込む。キャタピラに轢き回された死体が空中に飛んだ。
戦車の攻撃が終わると、歩兵部隊が逃げ惑う避難民をところどころに包囲し、自動小銃で掃射した。悲劇の満州在留邦人 婦女子らの列にソ連軍戦車が突っ込んだ!
生存者を見つけたソ連兵は銃や銃剣で次々ととどめを刺していく。
当時2年生だった女性はこう語る。
「壕の先の方で女の人が三十人ぐらい集まり、子供たちを真中にして、泣きわめいていました。それを見つけた(ソ連軍の)女兵士は、何人かの男の兵隊を呼んできて、一緒にダダダダ…と続けざまに撃ちました。一人残らず倒れるまで撃ちました」
敵兵に包囲された状況のなか、ケガをして逃げることを諦めた人や、子どもを失ったりソ連兵からの陵辱を恐れた女性などが自ら命を絶っていく。
子どもの首にひもを巻き、手足が動かなくなるまで締めた親もいたし、こんなふうに娘を殺した母親もいた。
読売新聞の記事(2021/08/02)
母がつぶやいた「どうしようかね」という問いは、自決の同意を求めているかのようだった。
母は倒れていた男性が持っていた軍刀を借り、「母さんもすぐに行くからね」と3歳の妹の首に当てた。知られざる満州の悲劇「葛根廟事件」…壕に入りソ連軍が発砲、母親がつぶやいた「どうしようかね」
旧厚生省引揚援護局の調査によると約600人がソ連軍に殺害され、残りの約400人は集団自決などの犠牲者だとされる。
こうして1000人の以上の民間人が亡くなった。
守ってくれる人がいないと、「誰か、助けてくれ」と叫ぶことしかできない。
ソ連兵が去った後、付近に住んでいた中国人が現れる。
そのときの様子を、文春オンラインの記事で早坂 隆氏がこう書く。(2021/05/04)
地元の農民などがこの混乱に乗じて略奪している様子が目に入った。暴徒と化した彼らは、鎌や包丁、棒などを持ち、屍体から衣服や所持品などを剥ぎ取っていた。
「ソ連兵が戦車から何人も降りてきて、片っ端から撃ち殺し…」民間人1000人殺害“葛根廟事件”で生き残った日本人が語った“凄惨な現場”
遺体だけじゃない。
必死で抵抗しても棒で殴られるからされるがままになり、着物を略奪され全裸になった人もいた。
ソ連兵から守り切った大切な宝を奪われた人もいる。
暴民たちは、生き残った母子を見つけると母親を棒で殴りつけ、子供を奪っていった。
日本人の男児は300円、女児は500円で売買されるのが一般的だったという。
でも、親をなくした子供たちを救って育てた中国人も多くいたし、生存者を気の毒に思って食事を提供する中国人、モンゴル人、朝鮮人もいた。
このときの被害者も加害者も、現在ではもうほとんど生きていないし、誰かを恨んでも意味はない。
15日の終戦の前日に起きたこの「葛根廟事件」は、外国勢力による日本人虐殺事件としては日本史の中でも最大級のものだろう。
世界中の軍隊がある日一斉になくなるのならいいが、軍隊のあるところ・ないところが存在するとこんな惨劇が起こる。
「大丈夫。彼らはきっと襲ってこない」なんて政府が勝手に思い込んでいると国民が犠牲者になる。
国民を守るべき軍隊がいなかったことが招いた悲劇。
犠牲者を供養する意味でも、日本人がこれを忘れてはいけない。
この映画がいまの時点では上映中から、関心のある人は『葛根廟事件の証言』をクリックされたし。
終戦後には敦化事件(とんかじけん)という悲痛な出来事もあった。
ソ連兵の乱入があり、隣室からも女性たちの悲鳴や「殺して下さい」などの叫び声が聞こえてきたため、自決することに議論が決した。
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半藤一利『ソ連が満洲に侵攻した夏』や若槻泰雄『戦後引揚げの記録新版』辺りは今も入手可能なのか。