キレイに列をつくって電車を待っていたり、車内で静かに過ごしている日本人を見て、「彼らはルールをとてもよく守る」と来日した外国人が感心することはよくある。
でも日本人がルールを守り過ぎて、イラっとくる外国人も後を絶たない。
知人のブラジル人が郵便切手を買おうとコンビニへ行って、店員に封筒を見せて切手の料金を聞いたら、「それを言うことはできません」とピシャリと言われた。
コンビニの店員は切手を売ることはできても、ルールでその料金を伝えることはできないらしい。
スマホを持っていなかった彼が事情を話しても、「自分で調べてください」の一点張りでブラジル人は鉄のカーテンを突破できなかった。
それで「日本人ってさあ…」とSNSで文句を言う。
良くも悪くも日本人はルールや法を守るが、でもやっぱり限界や例外はある。
きょう10月11日は法律を守り抜いて、山口 良忠(よしただ)が息を引き取った日だ。
1913年に佐賀県の小学校教師の長男として生まれた良忠には、すでに公正や正義といった属性がついていて、その後の人生のフラグも立っていた。
京都帝国大学を卒業して司法科試験に合格した後、彼は裁判官になり、闇米を所持していて食糧管理法に違反した人を裁くようになる。
山口 良忠
戦後直後の日本は食糧不足の状態で、全国民が平等に米を入手できることを目的として食糧管理法があった。
でも、配給される米だけでは家族を養っていけない人もいる。
そんなことで生きるために、ウラで流通する違法の闇米に手を出す人はたくさんいて、良忠はそんな食糧管理法に違反した人を取り締まる立場にいた。
でも、実は彼も闇米を食べていたから自問自答して、自分を深く責めるようになる。
それで1946年に決意し、闇米を一切口に入れないようにした。
中身のない汁をすするような食生活を続け、やせ細っていく良忠を見かねて親や友人などが食べ物を送ったり食事に招待しても、良忠の固い意思がそれを拒否。
自分でイモの栽培を始めたりして、食糧管理法の範囲内でガンバっていたけれど、だんだん栄養失調の状態になっていく。
それでも裁判官の仕事を続けていた結果、良忠の精神に身体がついていけず、1947年に倒れてしまう。
それでやっと仕事から離れて療養するようになったが、トキすでに遅し。
栄養失調で体力を奪われていた彼は1947年10月11日、回復することなく息を引き取った。
病床で良忠は日記を書いていて、彼の死を伝える朝日新聞の記事は彼のこんな言葉を載せた。
「食糧統制法は惡法だ、しかし法律としてある以上、國民は絶対にこれに服從せなければならない」
「自分は平常ソクラテスが惡法だとは知りつゝもその法律のために潔く刑に服した精神に敬服している、今日法治國の國民には特にこの精神が必要だ、自分はソクラテスならねど食糧統制法の下喜んで餓死するつもりだ」
法律を守って、守り抜いて死んだ良忠は裁判官としてとても立派だった。
でも、守ると死ぬ法律とは一体何のなのか?
自分の命と引き換えにしてまでも、食糧管理法は守るべきものなのか?
彼が餓死した件は日本中で大きな議論を巻き起こす。
いまの日本では、人の命を奪うような非現実的で過酷な法はないだろうから、法律は守らないといけない。
でも地震の際、料金を取らずにお客さんを避難させた店員が称賛されたように、その場の状況で、店や組織のルールやきまりを破る柔軟性は必要だ。
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