【日本の夜明け】仏教僧の政治介入を終わらせた織田信長

 

10月13日は「引っ越しの日」だ。
1868年のこの日、京都を出発した明治天皇が江戸城(いまの皇居)へ入ったことを記念してこの日が爆誕。
だもんで前回、こんな記事を書いたのですよ。

【千年帝都】明治、東京遷都の理由/京都人の複雑な思い

日本で歴史的な引っ越しといえば東京遷都(せんと)のほかに、9世紀の平安遷都がある。
東京遷都では明治政府の中に、「(宮中の)数百年来一塊シタル因循ノ腐臭ヲ一新」するためには首都を京都から移すことが必要だという意見があった。
どんな“腐臭”かは知らんけど、とにかく明治政府は日本の首都を京都から東京へ移して、新しい時代をスタートさせたかったのだ。

では、「平安遷都」の場合はどうだろう。
なんで桓武天皇は都を奈良の平城京から、京都の平安京へ移そうと考えたのか?
平城京の何に問題があって、もはや平常運転はできないと判断したのか?

まず奈良時代、天皇や朝廷は仏教の偉大な力によって国をうまく治めようとしていた。
聖武天皇の時代には、天然痘の大流行によって有力貴族が何人も死んだり、地震や飢饉も発生して日本中が混乱と不安に包まれる。
それで聖武天皇は過去に例のない空前の大仏をつくり、仏教の力で日本に平和と安定をもたらそうと考えた。

いまでも奈良には興福寺や薬師寺といったデカいお寺があって、奈良時代の仏教の影響力の大きさを感じられる。
国を守るため朝廷は仏教を保護して、盛んにさせたのだからこうなるのは必然。
でもその結果、平城京では仏教僧が力を持つようになり、宗教の世界から足を踏み出して政治に介入する者も現れた。

その象徴的な人物が道鏡(どうきょう)。
孝謙上皇(聖武天皇の娘)を看病したことがきっかけで、道教は孝謙上皇の“お気に入り”となり、その後は彼女の“推し”でドンドン出世していき政治的権力を握るようになる。
道鏡の後押しで、弟や一門の人間が昇進して政治の世界へ入り込んできたから、藤原氏ら貴族の不満は高まるしかない。
そして道鏡はついに自分が日本の頂点、天皇になろうと考える。
「道鏡を皇位につかせたら、天下は泰平である」という神のお告げがあったとして、道鏡は天皇の位をねらうものの、和気 清麻呂(わけ の きよまろ)が確認するとその神託は虚偽であることが判明。
天皇がその報告を受けて、道鏡による「天皇簒奪計画」は失敗に終わる。(宇佐八幡宮神託事件
道鏡は激怒して清麻呂を左遷し、“清”を反対にした「穢麻呂(きたなまろ)」に名前を変えさせた。

日本の絶対的タブーを犯したり、幼稚な改名をさせるから、道鏡は平将門や足利尊氏とともに「日本三悪人」と言われるようになる。

 

道鏡がした署名

 

朝廷から手厚く保護されたことで、仏教勢力は調子に乗り過ぎた。
仏教は大事でも、お坊さんの政治介入なんてイラネ。
道鏡の件もあってそんなことに嫌気がさし、桓武天皇は寺院と仏教僧を奈良に置き去りにして、平安京へ遷都することにした。
桓武天皇としては「腐臭ヲ一新」との思いがあっただろう。
もちろん遷都の理由はこれ以外にもあるから、あとはググってくれ。

都を京都へ移して新しい時代をスタートさせた後、もう仏教勢力が政治に関わることはなくなった。
…とはいかず。
平安時代、絶大な権力を握っていた白河法皇(1053年-1129年)はこう嘆いた。

「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」

賀茂川の水とサイコロの目、それと山法師だけは自分の意のままにならない(天下三不如意)。
山法師とは“神意”を理由に朝廷へ押しかけて、自分勝手な要求を突き付けた武装僧(僧兵)のこと。
朝廷にいる誰もが神や仏に逆らうのはイヤだったから、この「強訴」をやられるともうお手上げ状態になる。
白河法皇でさえ、「アイツラだけは無理」とサジを投げだすレベル。

ただ、この3つはすべて「同じ」ではない。
賀茂川の水の流れやサイコロの目は人間の力を超えたところにあって、誰もコントロールできないことは明らかだ。
だから白河法皇はこう表現することで、山法師の存在が最も目ざわりで迷惑だったことを強調したという。
具体的な内容ややり方が違っていても、宗教の権威を利用して、僧が政治に介入する構図は奈良時代と変わっていない。
この悪習は無くさないといけない。
でも、そんなことは誰にもできなかった。

 

「引っ越しの日」の10月13日は1574年に、長島で一向宗の信徒が織田信長に降伏した日でもある。
でも信長は自分に歯向かった人間を許さず、容赦なく攻撃して長島の一向勢力を壊滅させた。
長島一向一揆
ほかにも信長は、石山本願寺(後の大阪城)に立てこもって抵抗した本願寺勢力(一向宗)と10年間も戦って、有利な形で和ぼくに持ち込んでいる。
この1570年の史上最大の一向一揆、石山合戦が終わると日本各地の宗教一揆は激減する。
織田信長は止まらない。
翌71年には「比叡山焼き討ち」を行って、延暦寺の仏教勢力に大ダメージをあたえる。
延暦寺側は浅井や朝倉に味方して信長を苦しめるなど、純粋な宗教集団ではなく、もはや仏教を利用した武装勢力となっていた。
それを信長が圧倒的な武力で無力化する。

この「比叡山焼き討ち」については信長の残虐性を非難する見方があれば、「その事は残忍なりといえども、永く叡僧(比叡山の僧)の兇悪を除けり」と、日本にとって有益だったとする新井白石のような肯定的な見方もある。
このころの延暦寺の僧は、女性との関係を楽しむ、肉を食べる、金もうけに走ると悪行をしていたから、焼き討ちは自業自得(山門を亡ぼす者は山門なり)と言う人もいた。

評価はいろいろあっても、信長が日本の政教分離を一気に進めたのはとってもいいこと。
奈良時代から政治に介入して天皇になろうとしたり、時の最高実力者でも制御できないほど仏教僧はやりたい放題をしてきた。
信長はアンタッチャブルだった宗教的権威を否定し、その聖域を武力で粉砕したことで、仏教僧は政治の世界から身を引いて仏道修行に専念するようになった。
だから、彼は本来の姿を取り戻させたという見方でもできる。
こんなことが可能だったのは織田信長しかいない。

ヨーロッパ史を専門とする歴史作家の塩野七生氏も信長を称賛している。

織田信長が日本人に与えてくれた最大の贈物は、比叡山焼討ちや長島、越前の一向宗徒との対決や石山本願寺攻めに示されたような、狂信の徒の皆殺しである

「男の肖像 (文春文庫) 塩野七生」

 

比叡山焼き討ちの後、延暦寺の僧兵による強訴が消えた。
「日本人に与えてくれた最大の贈物」というのも、宗教と政治が結びついて何度も宗教戦争が起きたヨーロッパの歴史を見ると理解できる。
一向一揆を撲滅したことも合わせて、無慈悲な信長が日本にしてくれた功績は本当に大きい。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。