1755年11月1日の朝、東日本大震災と同じレベルの巨大地震が発生して、西ヨーロッパの大地が文字どおり揺れた。
マグニチュード9とみられるこの地震はポルトガルのリスボンを直撃。そこを中心に大きな被害をだして、建物の倒壊や火災、津波によって約6万人が亡くなったという。
このリスボン地震のまさに次の日、11月1日にオーストリアの超名門ハプスブルク家に女の子が誕生した。
後に「悲劇の王妃」として知られるマリー・アントワネットはもう、「不幸フラグ」を手に持って生まれてきたようなものだ。
フランスとオーストリアが同盟を結んだことで、政略結婚として14歳のアントワさんはフランスの王太子だったルイ16世と結婚し、1774年に彼が国王になると同時に彼女もフランス王妃となった。
当時のフランスには王や貴族、キリスト教の聖職者といった「上級国民」がいて、その他大勢の市民が彼らを支えていた。
自分たちはお金が無くて厳しい生活をしているのに、上にいるごく少数の人間は国庫(税金)を好き勝手使って人生をエンジョイしている。
そんな超格差社会(アンシャンレジーム)に対して市民の不満や怒りは高まっていき、もはや限界に達していた。
ハプスブルク家という大貴族の家に生まれて、何不自由なくスクスクと育ったアントワさんは、フランス社会に広がる不穏な空気を1ミリも読めなかったらしい。
彼女はゴージャスな服や靴、それと宝石を散りばめたアクセサリーを身につけて、カジノやオペラ、パーティを楽しむというファビュラスな生活を送っていた。
「あなた出す人、わたし使う人」と国民の血税で、自分がぜいたくをするのは当時のフランス貴族にとっては当たり前のこと。
でも、アントワさんの浪費癖やぜいたく生活は別格で、その悪評は広く知られていって「赤字夫人」と呼ばれるようになり、国民の怒りは彼女へ集中していく。
フランスを越えて、ヨーロッパのファッションリーダーとなったアントワさんの「船盛りヘアー」
考えるな、感じろ。
そして1789年7月14日、パリの市民の忍耐は限界を突破してついに大爆発。
バスティーユ牢獄を襲撃して革命がぼっ発すると、上流階級にとってはリスボン地震を超える衝撃がフランス全土へ広がっていく。
このころ急激な物価高で、パンも手に入らなくなったことに市民が憤激し、10月には女性を中心とする大勢のパリ市民が「パンを寄越せ!」と叫びながら、国王と王妃が暮らすヴェルサイユ宮殿まで行進する。
「群衆が近づいています。宮殿が彼らに包囲される前に、早くお逃げください!」と国防大臣が提案すると、ようやくアントワさんはいまフランスで何が起きているのか理解し、急いで避難した。
…となっていたら、あんな最期を迎えることはなかったと思われ。
外出している夫と一緒でなければ移動しませんと、せっかくのアドバイスを拒否したアントワさんには現実がまるで見えていなかった。
ルイ16世紀が戻ってきたころには、時すでにお寿司。
ヴェルサイユ宮殿は怒れる民衆に取り囲まれて、脱出することはもはや不可能になっていた。
結局、国王一家はパリへ連行されると、テュイルリー宮殿で市民に監視されながら生活するハメになる。
(ヴェルサイユ行進)
「食べ物よこせ!」のヴェルサイユ行進
想像力は無限大だから、歴史の「タラレバ定食」はいくらでもある。
このとき市民にはまだルイ16世に対して敬意や親愛の情を持っていたから、ヴェルサイユ行進の時点では王政の廃止までは思わず、国王夫妻もおとなくしていたら処刑されることもなかっただろう。
でも、“囚人”の状態に嫌気がさしたアントワさんは夫を説得して、実家のあるオーストリアへ脱出することにした。
1791年6月20日の深夜、国王一家はそれぞれ別人に変装して、テュイルリー宮殿を抜けだすことに成功する。
この際、またも空気を読めなかったアントワさんは、家族全員が乗れるような広くてラグジュアリーな馬車に乗りたいと主張して「それじゃなきゃ、い・や・で・す」と押し通す。
こうして足の遅い馬車が用意され、それに大量の服や食料品、ワインなどを載せたことで、一行の進行速度は亀レベルになってしまう。
王妃のわがままなどで逃亡計画は狂ってしまい、国境近くのヴァレンヌで正体がバレて国王一家はパリへ連れ戻された。
荷物をたくさん積んだら、自分たちが詰んだというオチ。
このヴァレンヌ逃亡事件によって国王が国民を見捨てたことが分かり、支持者の心も離反して社会の空気は一変し、革命は王政廃止の方向へと進んでいく。
国外脱出に失敗した2年後、1月にルイ16世がギロチンで首をはねられて、10月にマリー・アントワネットも同じように処刑された。
その直前、死刑執行人の足を踏んでしまった彼女は、
「ごめんなさい、わざとではないのよ」
と言ったという話もある。
オーストリアまであと少しのところで捕まって顔を覆う王妃
マリー・アントワネットが大好きだったもののひとつに、ブレゲの懐中時計がある。
物価高や重税で国民をヨソに彼女は、時計の歴史を200年早めたと言われる天才職人ブルゲに最高の時計を作るよう命じる。
これが完成したのは、彼女が処刑された約30年後だ。
囚人として獄中にいても、アントワさんはそのブレゲの時計を欲しがったという。
フランス革命の直前、貧困でパンも食べられないほど国民が苦しんでいると聞いて、マリー・アントワネットはこう言った。
「パンがなければ、ケーキ(お菓子)を食べればいいじゃない」
そんな有名な話があるけど、実際にはそんな記録はないからこれはきっと間違い。
でも、そう言ったとしてもおかしくないと人びとに思わせたほど、彼女は絶望的に空気が読めなかった。
イギリス人が見た日本・日本が世界の歴史で初めてした誇っていいこと
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