先日10月26日は1597年に、朝鮮出兵(慶長の役)で日本水軍と朝鮮水軍が激突する鳴梁(めいりょう)海戦があった日。
このとき名将・李舜臣の指揮する水軍がわずか12隻の船で、330隻ほどの日本軍を撃破して、“史上最も偉大な戦争”だったと韓国側ではエベレストより高く評価されている。
ちなみに韓国で鳴梁海戦を「鳴梁大捷」という。
大捷(たいしょう)とは「圧倒的ではないか我が軍は!」というほどの差をつけて勝つことで、そのまま大勝と理解してOK。
同じ出来事でも、映る姿がまったく違っているのが「日韓あるある」で、鳴梁海戦はまさにその代表例だ。
13隻ほどの朝鮮軍が日本軍の先鋒・30隻を攻撃し、損害をあたえてすぐに退却する。でも、本隊133隻と後方に200隻以上あったから、日本軍はそのまま進軍して朝鮮軍の拠点を制圧し、その後は予定どうりに後退した。
鳴梁海戦は日本ではそう認識されていて、「大捷」の反対で大惨敗に終わったという話は聞かない。
さて、鳴梁(めいりょう)海戦のほぼ1年後、「泗川(しせん)の戦い」があったことをご存じだろうか。
圧倒的に不利な状況で日本軍が朝鮮・明の連合軍を撃破した、この歴史的な戦いを知る人はマジで少ない。
このときも朝鮮出兵(慶長の役)はまだ続いていた。
いまの韓国南部の都市・釜山の近くにある「泗川」で、島津義弘の率いる2千の軍が10万の明・朝鮮連合軍と戦って、絶望的な戦力差をひっくり返して勝利を収めてしまう。
日本軍の死者2人に対して、朝鮮・明の連合軍の犠牲者は3万7000人に達したという説もあって、これは歴史的なジャイキリでもうアニメのレベル。
このへんの数字は資料によって違うが、「泗川の戦い」で日本がミラクルを起こしたことは間違いない。
この大捷によって島津義弘は「鬼(鬼石蔓子)」と呼ばれ、明や朝鮮のトラウマとなる。
この戦いの勝因は何か?
まず、戦国時代に島津義久が考案したという戦法「釣り野伏せ(つりのぶせ)」がうまくハマったことが考えられる。
そして義弘の軍が大量の鉄砲を使ったこと。
1543年にポルトガル人によって火縄銃が伝わると、戦国時代だった日本ではこの新しい武器が大量生産され、織田信長が武田軍を撃破したような銃を使った戦法も編み出されていく。
一方、1586年に火縄銃が伝来した朝鮮では、平和な時代を迎えていたため人々はこの武器には注目せず。
日本の鉄砲は朝鮮では、「森の中の鳥を撃って捕らえる銃」という意味で鳥銃と呼ばれていた。
朝鮮出兵で攻めてきた日本軍の鳥銃は、朝鮮軍にとってはチート級。
銃の威力に驚いた朝鮮人は「神器」と呼んだ。
当時の朝鮮軍にも「勝字銃筒」という火器はあったが、射程距離と命中率において日本軍の銃とは比較にならなかった模様。
中央日報(2021.06.04)
例えば、勝字銃筒は照尺がないのに対し、鳥銃は照尺があり照準射撃が可能だった。また鳥銃は銃身が長く、射程距離と命中率で勝字銃筒を圧倒した。
【韓日中三国志】豊臣秀吉の鳥銃に圧倒された朝鮮、武器が弱ければ血の涙流す
結局、100年以上も続いた戦国時代で経験値を積んで、日本人の戦闘力は爆上がりしたから、のんびり平和な時代を楽しんでいた朝鮮では歯が立たなかったのだ。
2千の日本軍が10万の朝鮮・明軍を撃破した「泗川(しせん)の戦い」の背後には、修羅の世界と平和ボケとの決定的な差があった。
村田銃
朝鮮出兵からトキは流れて、1894年にも甲午農民戦争(東学党の乱)で日本と朝鮮が戦った。
このとき東学農民軍が持っていた鳥銃は朝鮮出兵のときとほぼ同じモノで、村田経芳が開発した日本軍初の国産銃・村田銃の敵ではなかった。
武器の性能が“レベチ”だったこともあって、日本軍1人で農民軍200人を相手にできたという。
「武器が弱ければ血の涙流す」というのはホントそのとおり。
これは現代の韓国にも日本にも当てはまる。
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