大学時代、大阪出身の知人が「北関東の県の位置なんてわかるわけない。そんなん知ってる関西人はおらんて」と言う。
東から茨城、栃木、群馬県と並んでいるのだけど、ある日この位置が入れ替わっても、「前からこうやで」と言われたら「せやな」と関西人は納得するらしい。知人の話によれば。
一般の日本人にとっては、北欧がそんな感じでは?
ヨーロッパの地図を見て、アイスランド、ノルウェー、デンマーク、スウェーデン、フィンランドの位置を正確に指させる人は20%以下の予感。
今回取り上げるのはデンマークとスウェーデンで、歴史的にはこの2国はまったく違う。
現在のデンマークは九州とほぼ同じ大きさで、スウェーデンは日本の1.2倍とかなりデカいが、昔はデンマークの支配下にあったのだ。
歴史をさかのぼって1397年、スウェーデンのカルマルでデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの3王国が同盟関係を結ぶことで一致した。
といってもこのカルマル同盟はデンマークを盟主とするもので、ノルウェーとスウェーデンはデンマークに統治されることになったと言ってよし。
だからスウェーデンで独立運動が起こると、デンマークがそれを鎮圧するという“いたちごっこ”の状態が続いていた。
大きな変化があったのは、デンマーク王クリスチャン2世の時代。
「キリスト教徒」という意味の名前を持つ、このデンマーク王はわりと鬼畜だった。
*ちなみに王や皇帝のいる君主国としてのデンマークの歴史は長く、日本の次、つまり世界で2番目に古い国といわれる。
16世紀はじめ、スウェーデンで大規模な反乱が起こる。
「またか…」とクリスチャン2世は軍を率いて、反乱軍を鎮圧しようとしたら逆に返り討ちにあう。
「独立派、許すまじ!」と怒りに燃えるクリスチャン2世は大量の傭兵を雇って、再びスウェーデンへ侵攻すると、今度は戦いに勝利し、リーダーを失った独立派は混乱状態となる。
結局は、反乱罪は問わないことを条件に降伏し、独立派だったスウェーデンの人たちはクリスチャン2世をスウェーデン王として認め、忠誠を誓った。
戦いが終わればノーサイド(敵味方なし)だ。
1520年の11月にクリスチャン2世は「反乱を許す!」という寛大な声明を出し、和睦のためにスウェーデンの有力者たちを食事に招く。
これを「不幸フラグ」と見抜いた人がどれだけいたのか…。
スウェーデンの人たちがやってきて、王主催のパーティーでワインやビールを飲んでデンマーク人と打ち解ける。
3日後、クリスチャン王はスウェーデンの指導者を会議に呼ぶ。
彼らがストックホルムの王宮に入ってくると、突然大きな扉が閉められた。
「ダマされた!」と気づいた時はもう手遅れで、招待された客はすべて捕らえられる。
もともとクリスチャン2世は独立派を皆殺しにして、スウェーデンの独立運動を封じようと考えていたのだ。
その翌日、1520年のきょう11月9日、拘束された100人ほどのスウェーデン人が処刑されてストックホルムの大広場は血の海となる
デンマーク王の「罪を許す!」は「ストックホルムの血浴」といわれる虐殺のフラグだった。
ストックホルムの血浴
クリスチャンはこの虐殺によってスウェーデン人の心を砕き、屈服させようとした。が、完全に裏目に出た。
ダマして誘い出し、独立派の指導者を殺したことで、怒りに燃えたスウェーデン人は一致団結し、デンマークに徹底抗戦することを決める。
それが「スウェーデン解放戦争」に発展し、クリスチャン王の軍を倒して1523年に独立宣言を出す。
これによってカルマル同盟も終了だ。
クリスチャン2世は虐殺によって独立運動を抑え込んで、スウェーデンを支配下に置くつもりだったのに、王の裏切りと蛮行によってスウェーデン人が立ち上がり、最終的には独立してデンマークから永遠に分離する結果となった。
ということで北欧の国、スウェーデンとデンマークの歴史的な違いがおわかりいただけただろうか。
茨城、栃木、群馬の北関東の違いはググったらすぐ分かる。
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