政治で大切なことについて、弟子から質問された古代中国の賢人・孔子は軍備・食糧・民衆の信頼の3つを挙げる。
さらに、この中で最も重要なものを聞かれた孔子は、「民、信無ければ立たず(国民の信頼を失ったら、国は成り立たない)」と言ったらしい。
これはいまの日本にも当てはまる。
政権支持率が30%を切ったら、危険水域に突入したとみていい。
さて話は1767年に、タイの国王になってトンブリー王朝を始めたタークシンだ。
アユタヤ王朝の時代、中国人の父親とタイ人の母親のハーフとして生まれた彼は、父親から「鄭信」と名づけられた。
タークシン
「わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい」という両親の教育方針のもと(たぶん)、鄭信はすくすく成長していき、アユタヤ王朝に仕えてターク地方を治める知事(領主)となる。
「ターク+信」でタークシンの名になったという。
そのままであれば、タークシンはやがてステキな女性と結婚して子供をもうけて、浮気が妻にバレて修羅場を迎えることぐらいはあったかもしれないが、全体的には穏やな一生を過ごして、歴史に名を残すことなく一生を終えたと思われる。
でも、1765年に隣国のビルマが攻めてきたことで、彼の人生は一変した。(泰緬戦争)
ビルマの襲撃を受けて、大ピンチにおちいったと知ったタークシンは兵を率いて首都アユタヤへ向かったが、すでに都は滅ぼされ王朝もこの世から消えていた。
廃墟になったアユタヤはそのまま放置されたから、いまでもビルマ軍に滅ぼされた時の姿を見ることができる。
王都として繁栄していたアユタヤはビルマ軍によって徹底的に破壊され、焼かれ、奪われた。
それでその地を捨たタークシンは1767年に王となり、いまのバンコクの西側を首都にしてトンブリーに王朝を建てる。
その後のタークシン王は織田信長のように戦いの連続だ。
アユタヤ朝が崩壊したことで、独立状態となっていたピサヌロークやピマーイといった各地の勢力をぶっ倒し、アユタヤの属国だったカンボジアとラオスも屈服させて、彼はアユタヤ王朝の支配領域を回復することに成功する。
国内を再統一し、ビルマ軍に攻撃をしかけてタイから追い出したところまでは良かった。
ここまでなら、タークシンは英雄王と言っていい。
実際、彼は大王と呼ばれて、紙幣のデザインになったこともある(いまもあるかも。)
でもこの後、残念ながら彼は「闇落ち」してしまう。
タークシンは自分が未来のブッダであると信じて、血の色が白く変わることを期待するようになる。
このころのタークシンは控えめに言って異常。
トンブリーにいたフランス人の宣教師は、タークシンは空を飛べるようになるために祈りや断食、瞑想に明け暮れたと書かれたと手紙に書く。
そして、タイ社会では高く尊敬されている仏教僧に対して、自分を“神”として崇拝し頭を下げるよう求める。
それを断る僧がいると彼は激怒して僧の地位をはく奪したうえで、ムチ打ちや卑しい仕事をさせる罰をあたえた。
Monks who refused to bow to Taksin and worship him as god were demoted in status, and hundreds who refused to worship him as such were flogged and sentenced to menial labor.
タークシンの軍がラオス遠征で持ち帰ったエメラルド仏は、いまもタイの国宝になっている。
英雄王は晩年になると、完全に「狂王」になり果てた。
タークシンがここまで“闇落ち”した理由にはこんな指摘がある。
・中国系でアユタヤ王朝の王家の血がまったくなかった彼は、そのことで強いコンプレックスを抱いていた。
・アユタヤが滅亡した後、彼の人生は戦争の連続だったから、その緊張に精神が耐えられなって異常を示すようになった。
タイの上層部はこんなカオス状態で、国内は戦争によって疲弊して飢饉や略奪、犯罪が蔓延していた。
それでクーデターが起こるとタークシンは処刑され、彼の下で将軍をしていた人物が国王ラーマ1世として即位し、現在までつづくチャクリー王朝を始める。
せっかく親から「信」という名前をもらったのに、タークシンはそれを活かすことができず、トンブリー王朝は一代で消滅した。
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