不幸な隣国と偉大な君主:タイと日本が独立を守り抜けた理由

 

強敵と書いて「トモ」と読む。
オマエがいたから、オレは強くなることができたーー。

残念ながらタイ(シャム)とミャンマー(ビルマ)の関係は、そんな少年ジャンプ的なスバラシイなものではなくて、歴史的にはライバル関係にあった両国はよく戦争をしていた。(タイの歴史
その最後の戦いが1767年の泰緬戦争だ。
このとき侵攻してきたビルマ軍がタイのアユタヤ王朝を滅亡させ、破壊と略奪の限りを尽くして華麗な王都を廃墟に変え、多くの住民を捕虜として連行したことは、いまでもタイ人の歴史的トラウマになっていてミャンマーへの印象を悪くさせている。
この後、タイを再統一したタークシン王がビルマをタイにとっての最大の脅威と考えたのも必然。

【タイの歴史】英雄王タークシン、“闇落ち”して処刑される

タークシン王の次に新しい王朝を始めたラーマ1世も、ビルマの侵攻にそなえて首都を川の東側に移していまのバンコクをつくる。
でも、ビルマがイギリスとの戦争に負けて滅亡し、その植民地になるという驚天動地の事態が起こって状況は一変。
周囲をイギリスやフランスなどに囲まれてしまい、タイは危機的状況におちいる。
西洋列強が他国の領土を奪いながら近づいてきて、自国の独立が脅かされるという状況は19世紀後半の日本もまったく同じだ。
そんなタイと日本に共通しているのは、困難な環境でも主権(独立)を守り抜いたという輝かしい歴史があること。
知人のタイ人にその理由を聞くと、「それはラーマ5世のおかげです!」と即答する。

 

タイの歴史上、最も偉大な王と言っていいラーマ5世

 

そのタイ人の話によると、最大の脅威だったビルマがイギリスに敗北して消滅したという事態に、当時のタイ人は言葉にならないほどの衝撃を受けた。そしてこれによって、西洋との対決はできるだけ避けるという方針が決まる。
ラーマ5世は欧米へ視察に行ってその発展ぶりを直接見て回って、タイはかなり遅れていることを痛感し、西洋に学んでタイを近代化する「チャクリー改革」をはじめた。

ローマ5世のしたことで、知人のタイ人が高く評価していたのは奴隷制度を廃止したことだ。
これは当時の欧米人の価値観に合っていたから、タイへの好感度は高まって、もう「野蛮な国」とは見なされなくなる。
この名君が主導したチャクリー改革によって、国を担(にな)う人材を育てるための学校教育が整えられ、国内には鉄道、道路、電話、電信、郵便などが登場してタイの社会は別の次元へ進化する。
こうした近代化や、英仏に領土の一部をあたえて、それ以上の侵略を許さない外交を行なったことで、タイは独立を守り抜くことに成功した。

では、この流れを日本に当てはめてみよう。
まず隣国のビルマがイギリスに敗北して、タイが大きな衝撃を受けたという事態は、アヘン戦争(1840~42年)で清がイギリスに負けて日本が驚がくしたことと重なる。
その直前、江戸幕府は1825年に、日本へ近づく外国船があったら砲撃して追い返すという「異国船打払令」を出していた。
これは「迷わず撃て!」ということで「無二念打払令」とも言われる。
でも、アヘン戦争で清がぶっ倒されたのを見て、幕府は強硬路線を引っ込めた。
1842年に「異国船打払令」を廃止して、外国人船に飲み水や燃料をあたえることを認める「薪水給与令(しんすいきゅうよれい)」を出す。
隣国の惨状を見て、西洋列強の強さを実感することで、西洋との対決路線を改めたことはタイとそっくりだ。
ちなみに高杉晋作は上海へ行った時、主権を奪われた中国が西洋の植民地状態になっているのを見て、「日本はこうなってはいけない」という思いを固めた。

西洋をモデルに学校教育、鉄道、電話、電信、郵便などを整備して、タイの近代化を図ったラーマ5世の「チャクリー改革」は目的もやり方も、明治天皇を中心に行われた明治維新と基本的に同じ。
ただ、自分が欧米を視察してリーダーシップを発揮したラーマ5世と違って、明治天皇は自身はあまり動かないで、まわりを活かすタイプのリーダーだった。
日本学者のドナルド・キーン氏はこう書く。

総司令官である大元帥だったにもかかわらず、一度の戦争の作戦に干渉したことがないのです。ヨーロッパの皇帝などはしょっちゅうやっています。自分たちの好き嫌いで、この人は連隊長にしろといった命令を出していました。

「明治天皇を語る (新潮新書) ドナルド・キーン」

明治天皇

 

ということで本日のまとめ。
19世紀後半に西洋列強が近づいてきて、アジアの国が次々と植民地になっていったのに、なんでタイと日本は独立を守ることができたのか?

まず隣に「しくじり先生」がいて、西欧列強の強さを身をもって教えてくれたから。
そして最も危機的状況でタイにはラーマ5世、日本には明治天皇という名君がいたからだ。「王様ガチャ」でいうなら、これは大当たり。
自分の利益を守るために国内改革をぶっつぶして、結局は国を滅亡させる原因をつくった清の西太后と比べると、両君主の輝きはさらに増す。
ちなみにラーマ5世は1910年、明治天皇は1912年に亡くなったから、2人は同じ時代を生きたことになる。

不幸な隣国が反面教師になってくれたことと、国難の時に偉大な君主がいたこと。
この2点について日本とタイは本当にラッキーだった。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。