混ぜるな危険! 江戸時代、徳川幕府がキリスト教を禁止したワケ

 

1891年の1月9日は、内村鑑三不敬事件が起きた日か。
明治24年のこの日、第一高等中学校(東大教養学部の前身)の講師だった内村は、明治天皇の直筆とされる署名と御璽(ぎょじ:天皇の印)のある教育勅語に対し、最敬礼をしなかった。
当時の感覚からすれば、これは明治天皇に対する冒とくで絶対に許されるものではない。
これが世間に広まると不敬事件として社会問題となり、内村は翌月、学校を去ることになる。

内村が教育勅語への拝礼を拒否した理由は、彼がキリスト教徒だったから。
彼はキリスト教の信仰と日本への愛国心は矛盾するものではなく、両立すると考えて、「Jesus(イエス・キリスト)」と「Japan」を同時に尊重するという「二つのJ」という独特な思想を持っていた。
でも、当時の日本人がこの考え方に、理解や共感を示すことはほとんどなかったらしい。

 

で、ここから話は過去にブッ飛んで、この人のいた江戸時代にワープしますよ。

 

新井白石(1657年~1725年)

 

かなり優秀な頭脳を持っていた儒学者の新井白石は、6代将軍・徳川 家宣(いえのぶ)の側近として、日本の政治を動かし「正徳の治」と呼ばれる時代を築く。
江戸時代の日本ではキリスト教は厳禁されていて、信者が見つかると拷問を受けて棄教し改宗するか、それを拒否すると処刑されていた。
そんな日本へ、布教の情熱に燃えたイタリア人宣教師のシドッティが潜入する。
和服を着て刀を身につけて、侍の姿に変装して屋久島へ上陸したが、すぐに役人に捕まって長崎へ送られて、さらにその後、江戸へと護送された。
(シチリア王国出身のイタリア人がなぜバレないと思ったのか?)

江戸では新井白石がこのシドッティに興味を持って、彼が収容されていた切支丹屋敷に出向いて尋問を行う。
そこでのやり取りは白石の「西洋紀聞」にくわしく書いてある。
シドッティの話を聞いた白石は、神を絶対視するキリスト教の考え方は江戸幕府の統治思想とは絶対に合わないと確信する。
これを取り入れると日本は危険な状態になると理解し、「西洋紀聞」にこう書いた。

「もし我君の外につかふべき所の大君あり、我父の外につかふべきの大父ありて、其尊きこと、我君父のおよぶところにあらずとせば、家におゐての二尊、国におゐての二君ありといふのみにはあらず、君をなみし、父をなみす、これより大きなるものなかるべし」

もし自分が仕える主君よりも偉大な主君(大君)がいて、自分の父を超える大父がいたとする。
君主や父よりもその存在が上位にあるとすると、家や国に尊重すべきものが同時に2つ(二尊、二君)存在することになる。
するとそれだけでは済まず、主君や父を無視するという最悪の状態になってしまう。

つまり、キリスト教の信者にとって神は将軍や各地の大名を超える存在だから、幕府や殿様の命令をに従わなくなり、主君に逆らって殺すことも起こるかもしれない。
父親より神を上位に持ってくると、家庭は崩壊する可能性がある。

そんなことで江戸幕府が統治する日本において、二尊や二君という思想は絶対に許されないから、キリスト教は厳禁するしかない。
「混ぜるな危険」で、神と人が直接つながる発想は幕藩体制とは相容れなかった。

実際、1637年の島原の乱ではそんなことが起きているから、白石の危惧は荒唐無稽なファンタジーとは言えない。
島原の乱が鎮圧されて1年半後にポルトガル人が追放されて、日本では本格的な「鎖国」が始まった。
その後、幕末に起きた「禁門の変」までの約230年の間、多くの死傷者を出す戦いは起こらず、当時の世界では奇跡のような平和な時代が実現していた。

江戸時代の日本人に神と主君の「二君」は許されず、明治時代になっても「二つのJ」はなかなか受け入れられなかった。
将軍や天皇を頂点として、国民はそれぞれがそれと直線でつながることで日本の社会秩序を保っていたから、キリスト教の「神はこの世のすべての存在を超越する」という思想はどうしても合わなかったのだ。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。