近所のマクドナルドへ行ったら「月見バーガー」を発見。
もうそんな時期か。
なんて思ったきょう9月13日は、1912年に明治天皇の大葬(葬儀)が行われて、乃木希典(まれすけ)が妻とに自宅で殉死した日だ。
乃木希典は日露戦争で活躍した軍人で、戦後は英雄として人びとに尊敬された人物。
彼は戦場へ行くまえ、妻にこう言い残した。
自分は、生命も時間も考えも、すべて、陛下と国家に捧げているのだから、些しの私情もこの間にはいってはならないと申しました
「乃木大将と日本人 (講談社現代新書) S・ウォッシュバーン)」
この言葉はホンモノだった。
1912年(大正元年)9月13日、東京・赤坂の自宅で、明治天皇の御真影と向き合うようにして座り、乃木は刀で自害する。
その死を悼んで「幽霊坂」の名称は「乃木坂」へ変えられた。
晩年の乃木希典と妻
主君などの死者に従って死ぬことが「殉死」で、仕事のためなら「殉職」、国ためなら「殉国」、宗教のためなら「殉教」となる。
「生命も時間も考えも、すべて、陛下と国家に捧げている」という乃木の純粋な心にふれて、当時、多くの国民が涙を流した。
自宅から青山葬儀場までの沿道は、外国人を含め20万人の民衆で埋め尽くされたという。
日本では明治時代のまえ、死後の世界まで主君について行く、忠臣であり続けることを示す殉死は武士の時代によくおこなわれた。
14世紀の室町幕府と山名氏との戦い(明徳の乱)を描いた『明徳記』にはこんな一文がある。
「軍のならひは海山を隔てても、大将討死したるをききては、追腹を切るもならひぞかし」
戦国時代では戦いで主君が討ちとられたり、追いつめられて腹を切る時に、家来も後を追って自害(追腹)することが主流だった。
平和な江戸時代になると合戦は無くなり、最高の忠義を表す「殉死」は武士の美徳となる。
それで主君が討ち死にすることなく、病気などで自然死した時にも、臣下が後に続いて切腹する風習が生まれた。
こんなトレンドは海外にはなかったらしい。
日本の殉死の特徴は,病気などで死んだ主君の後を追って自殺する風習が流行することである。
ただこれが「なんでオマエはやんないの?」と、同調圧力になるのが日本人の悪いところ。
徳川家光の側近だった松平 信綱(のぶつな)は主君の死に殉じなかったことから、「松平伊豆守信綱」の別名から世間でこう皮肉られた。
「伊豆まめは、豆腐にしては、よけれども、役に立たぬは切らずなりけり」
「仕置きだて、せずとも御代は、まつ平、ここに伊豆とも、死出の供せよ」
1657年に肥前佐賀藩主・鍋島勝茂(かつしげ)が死んだ際には26人が殉死する。
「死出の供せよ」という風潮を好ましく思わなかった江戸幕府が「もう、そういうのやめようよ」と1663年に殉死を禁止したことで、この風習は日本から消えていく。
でも、幕府が忠義を重視していたことは変わらない。
その対象を「主君」から「主君の家」へ変えて、家来は個人ではなくその一族に仕えるようにしたのだろう。
現代だと有名人の後追い自殺がこれに近いような。
どんなに気持ちが純粋でも「殉死」は結局は自殺だから、そんなのはドラマや映画の世界だけで十分だ。
もうすぐ「国葬」があるけど、さすがに令和の乃木希典は出てこないだろう。
「月見バーガー」を食べる時代にそんなのは美徳にならない。
インドには「サティー」という殉死の風習があった。
夫に先立たれた妻が遺体を焼く炎に飛び込んで、一緒に焼死するというドン引き必至なヤツ。
インドのこの城には亡くなったマハラジャ(王)とともに、サティーをおこなった女性の手形が残されている。
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