千年の都で、日本文化の中心地だった「京都」。
これは、言葉だけなら3世紀に生まれた中国語だ。
昔の中国では、全世界の統治者である皇帝は偉大な存在だったから、他人がその名前にある文字を使うことは禁止されていた。
この避諱(ひき)のルールから「京都」が生まれる。
そんな避諱の考え方から、後世の中国人に名前を変えられた美女がいる。
3世紀に劉備玄徳の建てた「蜀」を滅ぼした晋の文帝は、諱(いみな:本名)が「司馬昭」(しば しょう)だったから、人々は「昭」の文字を使うことはできなかった。
それで、それより前の時代にいた王昭君(おうしょうくん)について書く場合は、「昭」を「明」に変えて「王明君」とした。
この王昭君は楊貴妃・西施・貂蝉と並ぶ、中国の四大美人として知られている。のだけど、グーグルに「王昭君」と入れて検索すると、関連ワードに「モンスト」が出てきたのは予想外。
日本で王昭君は「モンスト」のゲームキャラとして有名らしく、そのキャッチコピーには「異郷を目指す幸薄少女」とある。
まあたしかに王昭君の人生はそんな感じだった。
王昭君
いまから2000年ほど前、王昭君が生まれたころの中国は前漢の時代で、当時は匈奴(きょうど)という強大なライバル国があった。
北方にいた騎馬遊牧民の匈奴の攻撃力はすさまじい。
秦の始皇帝が万里の長城を築いた大きな目的は「匈奴対策」で、巨大な壁でこの騎馬民族が中国本土へ侵入してくることを防ごうとしたのだ。
でも、ずっと敵対していたわけじゃない。
前漢の元帝の時代になると、匈奴の有力者だった呼韓邪 単于(こかんや ぜんう)が投降して、「皇帝の家臣になって自分が北方を守りましょう」と提案する。
*「単于」は匈奴の支配者。
「悪くない。長城よりも、呼韓邪のほうが頼りになる」と考えたようで、元帝はこれを受け入れる。
ついては、後宮にいる女性を妻にほしいという呼韓邪の希望も認めた。
この後の展開についてこんな話がある。
皇帝に仕える宮女は中国全土から選び抜かれた美女ばかり。
全員が「橋本環奈クラス」と考えていい。(しらんけど)
後宮にいる女性は皇帝の“所有物”だから、美人はもったいないと思った元帝は、いちばん醜い女を呼韓邪に与えることにした。
宮女たちの似顔絵を見ていた元帝が、「よし、このブスにしよう」と決めたのが王昭君。
「いままでお世話になりました。では行ってきます」と、別れのあいさつをしに来た王昭君を見て、そのあまりの美しさに皇帝は絶句する。
でも、この段階で「チェンジ」はできないから、元帝は断腸の思いで王昭君を見送った。
なんでこうなったのか?
当時の宮女たちは皇帝に選ばれるために、似顔絵師にワイロを渡して実際よりも美しく、かなり盛った自分の似顔絵を描いてもらっていた。
でも、王昭君だけはカネを贈らなかったから、怒った絵師は王昭君の顔をブサイクに描く。
というわけで絶世の美女だった王昭君は、似顔絵で判断していた元帝にスルーされ続ける。
それで、初めて“リアル王昭君”を見て驚いた元帝は、後で事情を知って激怒し、似顔絵師を処刑してその首をさらしものにしたという。
この「斬首説」はわりと有名だけど、後世の人による創作らしい。
ワイロを渡していれば、王昭君は皇帝の子を産んで皇后となり、やりたいことは何でもできる身分になっていたかもしれない。
でも実際には、“野蛮”とされた異民族の男と政略結婚をさせられ、言葉も文化も習慣も違うところへ送られてそこで亡くなったから、「異郷を目指す幸薄少女」はわりと合ってる。
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