きょねん大分県で大学生が車にはねられ、死亡するひき逃げ事件が発生した。
容疑者は時速100キロ近い猛スピードで、ブレーキをかけずにはねたというからまさに鬼畜。
容疑者はいまも逃走中で、このほど警察庁が「重要指名手配」に指定した。
その名前が「八田與一」だったため、ネットではそこに突っ込む人が続出した。
・八田與一
名前負けにも程があるな
・名前が偉大すぎるw
・台湾人もびっくり
・名前を汚す様なことをしやがって。
・偉人じゃん・・・転生してひき逃げ犯になったんか・・・
数年前、20代の台湾人女子3人が日本へ遊びにやって来た。
わが静岡の伊豆半島にも来ることになったから、ボクが車で彼女たちを案内した。
その際、3人と話をしていると、台湾で日本の人気はすさまじく高いという。
日本の印象が良い理由として、彼女たちがそろってあげたのは八田與一(よいち)の名だった。
3人の台湾女子に好評だった竹林
日本は1895年から1945年まで台湾を、1910年から1945年まで朝鮮半島を統治した。
この時期、日本は台湾で、農産物を安定的に供給できるよう農業政策に力を入れていた。
石川県出身の技師・八田與一は現地を調査し、台湾南部の平野に水を供給できるように、巨大なダムの建設を提案する。
それが台湾総督府に認められ、八田はさっそく工事を開始。
多くの苦難を乗り越え、1930年に世界最大規模のダムが完成し、嘉南平野は豊かな穀倉地帯となり、人々の生活も豊かになった。
それで現在、八田は台湾の人から、「八田与一技師の台湾への功績はいくら感謝しても感謝しきれないです」と言われるほどの人物になっている。
あのひき逃げ犯は、「逆キラキラネーム」で名前の偉大さに負けたかも。
八田与一
八田の誕生日になると、台湾の人たちは誕生祭を行い、たくさんのお供え物を彼の像に捧げる。
結果、八田は「ご神体」のようになる。
写真提供:Hsu Hsu
石川県には、八田与一のほかにもう一人、「ダムの父」と言うべき偉人がいる。
それが野口 遵(のぐち したがう)で、彼は朝鮮半島の北部、現在の北朝鮮と中国の国境にある巨大ダム「水豊ダム」を建設した。
このダムの人工湖の表面積は琵琶湖の半分ほど。
完成当時、このダムは東洋一の規模を誇っていた。
韓国の電気事業は朝鮮王朝の末期、アメリカ人の企業家がつくった漢城電気によって始まった。
でも、それはうまくいかず、契約した人は首都の京城で、約5万戸のうちわずか493戸だけ。
その後、日本による韓国併合の後、漢城電気の電気事業は日本資本の企業に買収された。
すると、昭和5年には京城とその周辺で約9万5千戸、14年には約14万8千戸と急増し、一般家庭に広く電気が普及していく。
朝鮮全体では、16年には主要21都市の電灯普及率が66%、全土でも17・4%に達した。
野口らが建設した水豊ダムも、朝鮮の夜を明るくすることに大きな貢献を果たす。
朝鮮戦争ではアメリカ軍の爆撃に耐え、戦後は北朝鮮の発展を支えた。
水豊ダムはいまでも現役で、北朝鮮発電の「主力」である水力発電所の中でも最大だ。
しかし、現在の韓国で野口 遵(したがう)は完全に忘れ去られている。
韓国は台湾社会と違い、「朝鮮の近代化に貢献した日本人がいた」と言える空気はない。
像を作って、毎年命日にお供え物をする必要はないが、韓国メディアは彼のこんな姿を少しは国民に伝えてほしいものだ。
産経新聞の記事(2018/6/2)
朝鮮に戸籍を移してまでその近代化に尽くした野口は昭和19年、70歳で亡くなる。死後、寄付した全財産は、生涯をささげた化学研究と、朝鮮留学生のための奨学金に充てられた。
(21)日本人が築いた「電力遺産」を食い潰す北朝鮮
野口遵と建設中の水豊ダム
台湾の情報を日本人に発信している Hsu Hsuさんによると、「台湾水道の父」と呼ばれる浜野弥四郎の絵本が出版された。
「たくさんの日本国の子供たちに浜野弥四郎技師の功績を認識させる事ができれば、良いですね」と台湾人のHsu Hsuさんが言う。
実際、日本の大人の中でも、浜野弥四郎を知っている人は激レアだろう。
日本人は統治時代の歴史をしっかり学んだ方がいい。
おまけ
今回出てきた台湾人女性と知り合ったのは、1人が学生時代に、台湾の世新大学で日本語のボランティアガイドをしていて、ボクが台湾旅行でお世話になったから。
ボランティアチームには日本語学科の3,4年生が属しています。無料のボランティアサービスである事に加え、学生たちの熱心なガイドは、日本人観光客にとてもよい評判です。
台湾へ旅行に行くなら、ここでガイドのお願いをするといい。
ホームページには旭日旗のデザイン
韓国だったらこれも問題になる。
台湾人がアニメを見て感じた「日本と台湾の学校との違い」とは?
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