ニコポリスの戦い:オスマン帝国に、ヨーロッパが戦意喪失 

 

日本では昭和の時代まで、性的サービスを提供する店を「トルコ風呂」と呼んでいた。
略して「トルコ」と言う人もいる状況に、在日トルコ人が怒るのは当然で、彼らが抗議したことで、1984年に「ソープランド」に改称された。

【トルコ人激怒】ハマムが日本で、“トルコ風呂”になったワケ

 

9月25日は、1984年に全日本特殊浴場協会連合会が「トルコ風呂」の名前を使わないように申し合わせた日だとか。
偶然にもこの日は、1396年にオスマン(トルコ)帝国がヨーロッパを相手に偉大な勝利を収めた日でもある。
ということで、今回はトルコさんへの罪滅ぼしの意味でも、「ニコポリスの戦い」について書いていこう。

 

ニコポリスの戦い

 

ニコポリスはブルガリアにあった町で、現在では「ニコポル」と、ややカワイイ名前の町になっている。
「ポリス」(polis)とは、古代ギリシアにあった都市国家のこと。
現代でも、アメリカのミネアポリスやアナポリスのように、このギリシア語が使われた都市がある。
police(警察)やpolitics(政治)などの語源もコレだ。
ニコポリスとはギリシャ語で「勝利の町」を意味する。
ただし、1396年にここで行われた戦いに勝利したのは、オスマン帝国の皇帝バヤズィト1世だった。

当時、ヨーロッパのキリスト教国は、イスラム国家であるオスマン帝国を共通の敵とみなし、十字軍を結成した。
そのメンバー国は、ハンガリー、神聖ローマ帝国(ドイツ)、フランス、ポーランド、イングランド、スコットランド、スイス、ヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国、マルタ騎士団などで、それをハンガリー王ジギスムントが指揮することとなる。
そのころ、フランスとイングランドは百年戦争を戦っていたが、共にキリスト教を守り、バヤズィト1世に罰を与えるため、「ニコポリス十字軍」に参加することを決めた。

1396年9月25日、ニコポリスで十字軍とオスマン帝国の軍が激突し、ヨーロッパ側が派手に負けた。
戦闘が始まってすぐに、ジギスムントは「だめだこりゃ」と判断し、急いで撤退する。
彼は漁師の船に乗ってドナウ川を渡り、何とか逃げ延びることができたからラッキーだったが、戦場で捕虜となったヨーロッパ人は悲惨だ。

バヤズィト1世は捕虜を次のように分けた。

貴族など身代金を期待できる者は人質に、20歳以下の者は人質か奴隷にした。
そして残りの者は「使い道」がないとみなされ、首をはねられたり、手足を切断されたりして殺害された。

 

虐殺された捕虜の数は300~3000人とされる。
処刑は早朝から夕方ごろまで続き、バヤズィト1世は流血にうんざりし、処刑を中断させたという。

 

戦いに惨敗すると、負けた側はショックで声も出なくなる。
現代の日本のネット界では、選挙やスポーツの試合などで大敗すると、その陣営は静まり返ることから、「お通夜状態」と表現される。

ニコポリスの戦いの後のフランスがまさにそんな状態。
当時の記録には、「苦悩が全ての上に君臨していた」「朝から夜まで葬儀」とあり、フランスでは服喪の日が定められ、その日は「パリのすべての教会の鐘の音を聞くのも哀(あわ)れを誘う」状態だったという。

 

「雷帝」や「稲妻」と言われたバヤズィト1世
この角度の自分がお気に入りらしい。

 

ニコポリスでの敗北により、ヨーロッパ人は「もう無理っぽい」と戦意を完全に喪失する。
オスマン帝国に対抗するため、ヨーロッパの連合軍が形成されることは無くなり、この戦いが中世最後の大規模な十字軍となった。
そして、フランスとイングランドは思い出したかのように、再び百年戦争の続きを始める。
*この後、1571年のレパントの戦いでヨーロッパの国々が連合し、オスマン帝国を打ち破り、オスマン帝国の勢力は後退した。

逆にオスマン帝国は、ニコポリスでの勝利によって勢いづく。
コンスタンティノープルへの圧力を維持し、バルカン半島を支配下におさめ、中央ヨーロッパに恐怖を感じさせる存在となった。

By their victory at Nicopolis, the Turks discouraged the formation of future European coalitions against them. They maintained their pressure on Constantinople, tightened their control over the Balkans, and became a greater threat to central Europe.

Battle of Nicopolis

 

1453年、オスマン帝国はコンスタンティノープルを陥落させ、古代から続くキリスト教世界の1つを終わらせた。
そして、そこをイスタンブルと改称して帝国の首都とし、この後、オスマン帝国は全盛期を迎える。
ニコポリスの戦いの勝利によって、バヤズィト1世は「権力者、王、絶対的君主」を意味する「スルタン」の称号を得て、イスラム世界での権威を確立した。

日本人は「トルコ風呂」は忘れて、この戦いを覚えたほうがいい。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。