1533年のきょう11月15日、スペインの軍人で探検家のピサロが率いる一行が、インカ帝国の首都クスコに入った。
ピサロはインカ帝国を滅ぼし、自分が新しい支配者となって、現在の首都であるリマを建設する。
そんな悲しい歴史のあるペルーは、1873年に日本と外交関係を結んだから、今年ではちょうど150周年になる。
そんなことから、佳子さまがペルーを公式訪問されることになり、先日、ミッションを終えて無事に帰国された。
佳子さまはインカ帝国時代のマチュピチュ遺跡を見学され、「すてきな空気を感じます」とおっしゃる。
日本とペルーは地理的には遠く離れていて、それこそ地球の裏側にあるけれど、関係は深く、1990年にアルベルト・フジモリ氏(日本名:藤森 謙也)が大統領になったことは記憶に新しい。
娘のケイコ・フジモリ氏も有名な政治家で、2021年にはペルーの大統領候補になった。
日本とペルーが国として正式な関係を結んだのは1873年だけど、人間同士の交流はもっと古い。
1614年には、リマ市に20人の日本人がいたという記録が残されている。(日系ペルー人)
19世紀の中ごろ、ペルーは奴隷制度を廃止したため、農園で働く労働者が不足するようになり、その“穴”をアジアからの移民で埋めることにした。
それで1872年に「マリア・ルス号」が起きる。
清からペルーに向かう途中、横浜港に停まっていたマリア・ルス号には 、クーリー(苦力)と呼ばれる奴隷同然の中国人労働者が乗せられていた。
それを知った日本は人道上の理由から、労働者を“勝手に”解放し、これがペルーとの間で外交問題に発展する。
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結果的に、これで両国が接点を持ったことがきっかけで、翌1873年の外交関係樹立に結びついた。
受け止め方しだいで、ピンチはチャンスに変えることもできる。
今回の佳子さまのペルー訪問のニュースで、個人的に「マジで!」と思ったのが、マチュピチュ村の初代村長は野内 与吉(のうち よきち)という日本人だったこと。
野内は1895(明治28)年に福島県で生まれ、21歳で移民としてペルーにわたる。
その後、ペルー国鉄で働き、マチュピチュまでの鉄道建設に関わったことがきっかけで、マチュピチュに住みはじめた。
野内には能力や人望があったのだろう。
彼は1948年から村長を務めることになり、マチュピチュ村の発展に貢献した。
1983年にマチュピチュ遺跡が世界文化遺産に登録されると、村には、世界各国から友好都市を結びたいというオファーが殺到した。
しかし、マチュピチュ村は野内に感謝していたから、彼の出身地である大玉村に連絡し、友好都市関係になった。
皇族の「すてきな空気を感じます」という言葉を聞くことができて、野内与吉も草葉の陰で感激したに違いない。
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